殯(もがり)の庭

バンドを始める人は大抵中学か高校で楽器を手にしますが、私は人より遅く音楽に目覚めました。

高校卒業後は業界大手の某設計会社に就職し、給料も良く、そこにいれば将来は安泰。それに反して自分の心は全く別のものを人生に求めていました。

このまま流される自分の未来に希望などなく、自分が本気でやりたい事や、生きる意味や理由に真剣に悩み、でもそんな答えは簡単には見つからず、その鬱憤を晴らすように週末になる度に友人を代えては遊んでばかりいました。

その時間は楽しくてあっという間に過ぎ、仕事が始まればまた現実に引き戻される。その繰り返し。

次第に遊んでる最中でもどこか心の中は冷めていて、楽しめなくなる事が増えていきました。自分を確立する根っこがない限り、それがただの逃避でしかない事が分かっていたからです。

音楽は好きでよく聴いていたけど、その理由は単に流行っているからだとか、カラオケで歌う為だとか、その程度の好きでした。生きる事に退屈し、何より自分自身が退屈な人間でした。

ビートルズは高校生の頃から自発的に聴き始めて、全アルバムを揃えるほど好きでした。それでもこれがやりたいという意識は特になく、何の気なしに買ったロックの名盤という書籍を見て、これをビートルズから年代順に聴いてみようと思い立ちました。

そしてLed Zeppelinですぐにロックの魅力にハマってギターを始め、Gun N’ Rosesのアペタイトに辿り着いた時、それまでの人生が木端微塵に吹き飛ばされました。これが自分のやりたい事だと雷に打たれたような衝撃を受け、それ以前とそれ以降では全く別の人間に生まれ変わりました。

上京して作った最初のバンドは本当に楽しくて、かつて週末の夜に遊んでいた楽しさとは別次元の生きてる実感がありました。自分の音楽にも絶対の自信があり、メンバーもみな若く実力もあり本気だった。バンド以外の生活も充実して生きてる事が本当に楽しかった。

でもそういう楽しさにも必ず終わりは来ます。ライヴを始めた辺りから漠然と感じていた事が次第に目を背けられない明確な答えになってきて、それが仲の良かったベースが脱退して次のベースを探すタイミングで自分の中で大きくなりすぎて、もうあのバンドが続けられなくなりました。

『本気でやるなら誰かがやった事の後追いや二番煎じじゃ意味がない。何かに似た自己満足の音楽じゃ意味がない。創作や表現には自分だけのオリジナリティが一番大切で、誰かの模倣ではない独自のスタイルを持たねば勝負出来ない。曲だけでなく演奏も歌も詞も』

それに気づいてからは褒め言葉のように感じていた『誰々のような曲』、『誰々のような声』という言葉が一転して侮辱にしか聞こえなくなりました。

現代音楽に於いて完全な自分の音楽を作る事は既に不可能で、時代が経つほど自分の色をそこに足し加える事しか出来なくなっていきます。

その中で自分らしさを確立するのは本当に難しい事で、オリジナリティばかりに拘っても音楽として価値がなければ意味はなく、それが形になるきっかけを掴むまでには何年もの時間が掛かりました。

それを掴む事が出来たのは、新しくてカッコいいロックなどもう誰にも作れないと開き直れてからです。苦しみ悩んだ期間が長かった分、自分らしいスタイルのヒントは既に身に付いていました。でも曲もギターも歌も詞も、本当に自分のスタイルを確立したと思えたのはまだ最近の事です。

当初は何を作っても誰かの真似に思え、あんなに好きだったガンズの音楽も聴くのが苦痛になり、音楽を作るのが本当に苦しくなり、それ以降今に至るまで楽しいとは全く別種の感情にすり替わりました。

でもそれが作れた時の喜びはそれまでとはまた別次元のもので、きっとこれは経験のある人にしか分からない特別な感情でしょう。

必要水準以上でモノを創っている人は、きっと皆こういう苦しみを人知れず当たり前に乗り超えていて、それが自分の力で気づけない内はまだ入り口にすら立てていない。

そして生まれながらにそれが出来る人が本当の天才。でも私は本当の天才など世の中にはいないと思っています。

ある領域を超えてからは代償なしに手に入るものなどなく、それが他人には何も見えないだけ。才能だけで出来る事などたかが知れてます。

音楽が作れなくなってボロボロだった時の三度の自殺未遂や、離婚した父親との再会。腹違いの妹との出会い。妹と一緒にバンドを組み、解散し、最後に懸けた渾身のバンドも空中分解し、音楽から離れて小説を書き、また音楽に戻り、長い時間を掛けて音楽の凋落をリアルタイムで眺めてきて、ロックが過去のものとなった今、幅広く何万もの曲を聴いてきて改めて思うのは、この世で最も心が高揚する音楽は『完成されたロック』という再認識です。

本物からただのファッションまで一括りにロックと呼ばれる中で、自分が価値を感じるものはそう多くありません。ロックには作為的な要素や、無意味な幻想、過大評価も沢山ありました。

でもロックが廃れた今フラットにそれらを捉えると、ロックの精神性やらカリスマ性やら、退屈で冗長なだけのインプロはさほど重要ではなく、自分が価値を感じるのは完成されたロックの音楽性だけ。良いものは時代を超えて良く、そういう音楽には魂があり共鳴がある。

今でもロックと呼ばれる音楽はあるけど、ビートルズから年代順に聴きながら、あの頃の自分が感じていたロック特有の匂いや音、ギター主体の楽曲と音の絡み、ボーカルのソウル、それらが混在したグルーヴの興奮にはもう出会えないでしょう。

だからそれを自分のフィルターを通して作りたいのだと思います。金の為でも承認欲求でもなく、ただ自分が捧げた人生と払った代償を完結させる為に。

それでJunk Bird辺りから意識的にロックの良さにフォーカスした楽曲を作っています。

歌詞に関しては自分の詞に大衆的な共感はない事を自覚しつつ、そんなものをゴールにもしていません。自分でないものには憧れず、自分でいられるものだけを追求する。だから理解出来る人だけが腹の底から共感出来るものを書きたい。

それが誰かに届く届かないの虚しさも今はもうどうでも良く、ただ偽らず本物でありたい。表現者としても、選択した人生に対しても。

それは『寂しい人生』とも『かわいそうな人間』とも違います。なぜなら人間が一番辛いのは孤独ではなく退屈だから。退屈な時間が孤独を辛いと錯覚させる。けど本来孤独は人間にとって当たり前のもの。

自分にとっての『寂しい人生』や『かわいそうな人間』とは、退屈を無益に消費するだけの人生。退屈であるという事は自分自身が退屈な人間で、無益な暇つぶしに5年後10年後の成長はなく、一生退屈な人間のままなのだから。

もしあの若かりし時に、自分の人生がロックに木端微塵に吹き飛ばされていなかったら、きっと私は退屈な人間のまま寂しい人生を送っていた事でしょう。

そんな思いを胸に新曲『殯の庭』です。GWの制作が順調で時間に余裕が出来たので、頭の中を整理したくて久々に長文を書きました。

Masaki Aio (相尾マサキ) – 殯の庭

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