東海姫氏の国の謎
2019年4月30日に今上天皇の生前退位が決定しました。また年号が変わりますね。久々のブログは古代史ネタの投入です。頭の中でバラバラになっている知識の断片を一度文章に起こして、整理してみたいと思います。
一般的に知られている事ですが、天皇家に苗字はありません。なぜないのかといえば必要ないからです。
氏姓(うじかばね)は元々天皇から臣下に与えられる呼び名で、出自や官位を示す称号でした。それは君臣関係の暗黙の成立を示し、官位を与える側の天皇には氏姓を持つ必要性はありませんでした。
7世紀末の白村江での大敗や、その後の壬申の乱を経て、日本が本格的な律令国家になると、氏姓は臣下の位を表す格となり、有力豪族たちは祖神にいにしえの天皇の血脈を付与する事で、自身の出自が天津神の末裔である事を主張しました。
そんな乱れ切った出自を整理する為に、9世紀初めに新撰姓氏録が編纂されます。
『日本』という国名や、『天皇』という称号は、律令国家となった天武天皇の時代に定められたもので、それまで日本は国内では『ヤマト』、国外からは『倭』と呼称されていましたが、平安時代に編纂された『日本紀私記丁本』には日本が『姫氏国』と呼ばれているとの逸話があります。
「なぜそう呼ばれているのか」との天皇の問い掛けに、南朝の僧・宝誌は「日本の皇祖神が天照大御神で、神功皇后などの女帝も輩出している為、『東海姫氏の国』と呼ばれている」と答えます(東海とは中国人が古くから呼ぶ東シナ海の呼称です)。
この書の中での問答はここまでですが、実は姫氏という呼称にはもう一つの理由があります。
『後漢書』や『三国志・魏志倭人伝』などの倭国の記述で、『皆、黥面(げいめん)・文身(ぶんしん)す』という記載があります。
黥面とは顔の入れ墨で、文身は体の入れ墨です。実際顔や体に入れ墨を施した土偶が国内で複数発掘されており、記紀にも記述のある事なので、古代の日本にそういう風習があった事は間違いないでしょう。
魏志倭人伝によれば入れ墨は倭国内の各国で異なっていたようで、身分によって違いもあったようです。
また『普書』、『北史』の倭国の記述には『自ら太伯の後と謂う』との記載があります。これは倭国の人が「自分たちは呉の太伯の末裔である」と語っていたという事です。呉の太伯とは周の王族・古公亶父の長子です。
『史記』によれば古公亶父には太伯、虞仲、季歴の三人の子がおり、三男季歴の子・昌に古公は後を継がせたいと思っていました。
それを知った長子の太伯は身の危険を感じ、弟の虞仲と共に南の長江流域の荊蛮へ逃げ、その土地の住民と同様に文身・断髪をし、それを意気に感じた千余家の人々と共に太伯は呉の国を起こします。そして古公亶父の下で季歴の後を継いだ昌は周の文王となります。
『史記正義』によれば太伯が身を隠したのは倭族の住む太湖北岸の無錫県との事。ここでいう倭族とは百越の一族の事です。
呉の太伯は紀元前12~11世紀の人物で、太伯に従った呉の民族は苗族(ミャオ族)の祖となる三苗の一族との伝承があります。三苗とは黄帝に敗れた蚩尤(しゆう)の味方をし、国を追われた九黎族の末裔です。
現在の苗族の末裔はタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に現住する少数民族で、その宗教観は縄文・弥生の日本と同様全てのものに神や霊魂が宿るとする多神教のアニミズム。中には未だ入れ墨を施している民族も僅かにいるようです。
その後呉は紀元前473年に呉王・夫差の自決と共に滅亡しますが(三国時代の呉は孫権が起こした全く別の国です)、中国には呉や越の民族の一部が倭国に逃れたとする伝承が昔からあるようです(越は紀元前334年に滅亡)。
国を失った三苗や百越の一族が命懸けの南方経由のルートで日本に辿り着いた可能性は決してゼロではないでしょう。彼らは船の操縦に長けた海洋民族(海人族)でした。
中国伝説の王朝『禹』や五帝の一人『黄帝』、そして周王朝の国姓には『姫』という姓が用いられ、周の分家である呉王の国姓も『姫』となります。
倭の人々が呉の太伯の末裔であるならば、その王となる天皇の苗字も『姫』となり、姫を姓とする氏族で『姫氏』となります。これが日本が『東海姫氏の国』と呼ばれるもう一つの理由です。
その真偽は今となっては不明ですが、縄文末期~弥生初期に長江流域から南方経由で渡来人が稲作(水稲)をもたらしたのなら、それが国を追われた三苗や百越の一族であり、古代の日本に入れ墨の風習を持つ海人族(あまぞく)が多かった事も理に適っていると思います。
日本の水稲が朝鮮半島経由の北方ルートでなく、長江中流域で発祥して、南方経由のルートでもたらされた事は、古代米のDNAの品種の検証からも明らかになっています。
国内で発掘される銅鏡は中国の戦国時代~漢や魏のものだけでなく、三国時代の呉の年号が書かれたものも僅かながら見つかっています。つまり南方ルートで海を越えていたという事です。
また秦の始皇帝の勅命で不老不死の霊薬を求めた徐福が、3,000人の童男童女と多数の技術者、五穀の種を持って逃亡の船出をし、日本に移り住んだという伝説は広く知られており、国内にも徐福伝説の地は各地にあります。この時の徐福の逃亡航路も南方ルートになります。
会稽や東冶の人が海に出て強風に煽られ、澶州(沖縄)に漂着するという事は『後漢書』にも記述があります。これらは全て8世紀の遣唐使と同じ南方ルート。古代のガレー船で無事漂着するのは命懸けの航海だった事でしょう。沖縄には船の残骸だけが漂着する事もよくあったようです。
日本には安全な朝鮮半島経由の北方ルートだけでなく、南方経由でも民族が流入しており、更にはシベリアからサハリンを経由する北海道ルートでの移住もあり(アイヌ民族など)、大陸の文化の流入や交易が行われてきた歴史があります。
水稲は北部九州からゆるやかに東に広がり、それと共に祭祀に用いられた複雑な造形の縄文式土器は日常的に実用する極めて簡素な弥生式土器に変化し、紀元前200年頃からは銅剣や銅鐸が国内に普及を始めます。
銅鐸は入れ墨同様地域によって模様が異なり、サイズも時を経て変化していきますが、おおまかに言えば畿内を中心に九州北部から中部や関東の一部にまで至った銅剣・銅鐸の分布圏こそ、古代出雲による連合国の支配圏だったと私は捉えています。神話にある大国主の国作りです。
その後銅剣は鉄剣に変わり、銅鐸は前方後円墳出現のおよそ100年前から作られなくなります。打ち壊されて土に埋められ、その本当の名や使用目的の一切が人々の記憶から忘れ去られました(古語拾遺にある『さなぎ』は土から発掘した姿がさなぎに似ていた事から当時の人がそう呼んだ呼称です)。
再び『魏志倭人伝』に話を戻しますが、当時の倭国は統一王朝でなく、幾つもの国や王からなる連合国家であり、女王のいた都の名が邪馬台国(ヤマトの国)です。これは畿内の大和で間違いないでしょう。
日本でも中国でも昔から邪馬台をヤマトと認知しており、『隋書』には『邪靡堆(ヤマト)に都す。則ち魏志にいう所の邪馬台というものなり』と記述があり、日本書紀では神功皇后を卑弥呼に見立てるよう時代を改竄しています。
卑弥呼の生きた時代はちょうど記紀の欠史八代に当たり、2世紀中葉~後半の倭国大乱で国が乱れて争った際、祭祀者の卑弥呼を男王と共に立て、弟が補佐する事で国が治まります。その宮殿跡は現在大和の巻向遺跡とされています。
纏向遺跡の2世紀後半の地層からは突如関東~北九州までの各国の土器が現れ、4世紀中葉の地層でそれが途絶えます。各国の土器が一都市に集中しているのは2世紀後半~4世紀中葉の大和が連合国家の中心であった証でしょう。
それが江戸時代の後期に新井白石が古代の大和言葉や大和名ではない『ヤマタイコク』などというおかしな読みを提唱し、それに賛同した本居宣長が万世一系の天皇家と、中国に朝貢していた黥面文身の邪馬台国を別国家に仕立てる為に論争を煽り、残念ながらそれが現在も定着しています。
そして卑弥呼の後を継いだ『台与』はしっかり『トヨ』と発音しています。邪馬台国論争は本居宣長が国粋主義に因われすぎた国学者ゆえ生まれた空虚な論争です。邪馬台は大和です。