赤穂浪士と三島由紀夫

前回、謎の断筆宣言からはや三ヶ月弱……。

月日が経つのは早いもので師走も半ば、あっという間に年の瀬、正月です。今年は大掃除を日を分けて早めに済まそうと思い、今日はベランダの大掃除に取り掛かりました。

落ち葉がなくなって、広く片付いたベランダは気持ち良いもので、意味もなく時折片付いたベランダを見てしまいます。洗濯物も干しやすくなった。

さて今日は12月14日、赤穂浪士の討ち入りがあった日です。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは1703年12月14日寅の刻、今から310年前の話です。

当時は旧暦なので今の暦では1月末に当たります。また昔は朝日と共に一日が始まったので、寅の刻(午前4時)はまだ14日になります。

昔から美談とされている忠臣蔵ですが、浅野内匠頭が殿中で吉良上野介に斬り掛かった理由は明らかになっていません。

映画やドラマでは勧善懲悪もののエンターテインメント性を帯びて、吉良が一方的な悪役に徹していますが、吉良上野介の領地があった三河の吉良町では良君としての声もあります。

私は中学だか高校の頃この話に興味を持ち、史実はどうだったのか色々と調べた事がありましたが、結局の所はよく分からないというのが本音でした。

浅野内匠頭は短慮な性格で、決して名君と呼べる人ではなかった。一方吉良上野介も浅野内匠頭をいじめた事実は不明なものの、決して良君という訳ではなく、あまり評判の良い人間ではなかった。

浅野内匠頭の刃傷が単なる乱心ではなく、何らかの遺恨によるものであったというのは間違いないようです。

そんな人間らしい二人によって起こってしまった殿中での刃傷沙汰。浅野内匠頭即日切腹、吉良上野介お咎め無しという幕府の裁定。

それに対し残された家臣達がどんな人生の選択をするのかという所が、この話の最もドラマチックな肝だと私は思います。

浅野内匠頭が切腹してから赤穂浪士が吉良邸に討ち入るまでの期間は1年と9ヶ月。この間300人以上いた浅野家家臣の中で、浅野家再興の画策に動いた最初の1年5ヶ月の間は同士が120人余。

浅野家再興が絶望となり吉良邸の討ち入りへと加速した最後の4ヶ月で同士は次々と脱盟。ここで70人余が脱退しています。最終的に吉良邸に討ち入りした人数は47人。首級を挙げて吉良邸を出た人数は46人。

私達は昔の日本人をテレビや小説の受け売りで少しは知ったつもりになっていますが、それは現在の人間が何らかの意図を持って商業化した創作物にすぎず、決して実像に迫るものではありません。亡き主君の為に家臣が命懸けで忠義を立てるというのも当時の絶対的な常識ではなく、江戸の庶民のそうあって欲しいという願望の現れに過ぎません。

仕官先を失った家臣達には当然様々な葛藤があり、次の仕官先を求めた者や親類縁者の顔を立てた者、それらに立てる顔と仲間の志士に対する想いの板挟みになり自害を選んだ者、家族の為に生き残る道を選んだ者。様々な人間の想いと行動が見て取れます。討ち入りが後数ヶ月先ならまた人数も減っていた事でしょう。

そんな危うさの中、最初から最後まで真っ直ぐ討ち入りだけに突き進んだ者もいます。2年近くに及ぶ浪人生活は想像以上に過酷なものだったでしょう。何が彼らを支え、何に彼らがそこまで真っ直ぐになれたのか。それは単に主君の仇を討つという美談だけでは成し得なかったと私は思います。

12月14日に討ち入りをした元浅野家家臣は47人。その中には恩ある浅野内匠頭に忠義を立てる上士や寵愛を受けた中士もいれば、忠義立てする義理もないような下士も10人以上含まれています。ましてや浅野内匠頭は皆から好かれるような名君ではなかった。私が思うに彼らは主君への忠義に増して、武士としての美徳を完遂させたかったのではないでしょうか。

自身の死に様を完遂させる為の生き様を貫く。そんな武士としての美徳は平穏な江戸時代に於いては宙ぶらりんに行き場をなくして、自己矛盾へと通じていました。そういう美意識に強く囚われた者ほど仇討ちに拘り、更に主君への忠義立てという大義名分を得て、自分の生き様を真っ直ぐ貫けたのではないでしょうか。

47人の義士の中には4年前に主君から脱藩を命ぜられ(つまりクビです)、その後浅野家取り潰しを聞きつけて同士に加えてもらった浪人がいます。不破数右衛門です。彼は討ち入りの日最も目覚ましい活躍をしたそうです。

私は赤穂浪士の討ち入りを考える度に、三島由紀夫を連想してしまいます。三島由紀夫も特異な死に様の美学を持ち、それを完遂した人だと思います。

彼のクーデターは成功させる為のものではなく、平和な時代にあって行き場を失くしたイデオロギーと、年老いていく自分自身の拒絶の為、強引に自分で作り出した死に場所だったのだと私は思います。それ故彼の死には何か作為的な様式美が漂っている気がしてなりません。

さて、討ち入りを終えた赤穂浪士は引き揚げた泉岳寺で全員自害する予定でした。だが大石内蔵助はその取り決めを急遽覆し、幕府の裁定に身を委ねる判断をします。多分最初からそのつもりだったのでしょう。世論は赤穂浪士を讃えるものばかりで、幕府の意見は大いに割れました。

私はこの行為にこれで許されればそれもよし、許されずともそれもよしという、大石内蔵助の潔く達観した死生観と、幕府に対する何らかの含みを感じます。彼だけは主君への忠義や武士としての美徳を越えた、また別のものを見据えていたのかも知れません。

結局幕府の裁定は全員切腹。『死んでしまえばそれまで』、『生きてこそ価値がある』。現在リベラルな文化人は口を揃えてそう言いますが、命を懸けるだけの意味や価値がそこにあるのなら、或いはあったのなら、私は命を棄てる事が愚かな行為だとは思いません。

江戸時代に武士達が抱いた特異な士道はアヘン戦争、アロー戦争で清が大敗し、西洋諸国によるアジア植民地化の波が黒船と共に日本に現れた幕末に大いに花開き、また様々なドラマを生みました。

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