やどかりぐさ
新曲『やどかりぐさ』です。漢字だと『宿借り種』
最初に思い付いた段階ではシンプルなフォークソング。そして地上波では放送禁止のプロテスト・ソング。
ロックと違ってフォークは日本語との相性が抜群に良く、プロテスト・ソングの歌詞もフォークのメロとよく馴染みます。
ただそれを70年代のようなアレンジでやる事に意味はないので、所謂ニューフォークとして自分の音楽らしく仕上げました。
今年のGWは11連休あり、この曲のレコーディングからミックスまでを連休中に終わらせるつもりでいましたが、一つのパートを完成させると別のパートの新しい形が見えてきて、次の日にはまた別のパートを変えたくなって、それを納得いくまで繰り返していたら、全てのパートのレコーディングに丸10日を費やしていました。
その甲斐あって最終的に満足のいく楽曲に仕上がりました。RND5211のマイクプリも今回はレコーディングから使えているので音質にも非常に満足しています。
レコーディングが全て終わって曲の全体像が明確になり、想定通りのものだったり、想定を超えたものになったりした時。
ミックス前のその瞬間が最も幸福感を感じる時です。これは日常で得られるどの幸福感とも別種のものです。
誰かの真似ではない自分の音楽が作れるようになった時からずっとそうです。今はその瞬間だけに生かされています。
この曲の中では様々な事を歌っていますが、その一つにポリコレがあります。
ポリコレの気持ち悪さは誰もが口裏だけを合わせる社会基盤を形成した所にあります。しかし本音の部分では差別は変わらずにある。過剰な魔女狩りで誰も本音を口にしない社会に変わっただけです。
声の大きな女性は利己的な感情を同性の代弁者のように詐称して語りますが、彼女らの一番の攻撃対象もまた同性の女性たちです。
フェミニストが破壊したいのはかつての『女性らしさ』そのものであり、料理や裁縫が得意な『家庭的な女たち』の存在の否定です。
多くの男たちが結婚相手に求める『女性らしい素養や母性』への敵意や怨嗟ともいえるでしょう。
女が男と対等になる為には家事や育児を女性だけの仕事にする訳にはいかない。だから女はそれを捨て去ってでも男にも同様の選択をさせなければならない。
しかしそれは自身の生体への否定にも帰結しています。私がポリコレを気味悪く感じる一番の要因は『男女の区別』と『男女の差別』の違いさえ分からない低い知性にみなが賛同している事です。
今の時代でも女性らしさを大切にしてる人や、家を守る事に幸福を感じる人は沢山いるでしょう。それが本当の多様性です。
でもフェミニストたちはその考えの根底にあるものこそ男依存の奴隷気質だと、自分の主張の正当性しか認めようとしない。ここにポリコレ活動家の本質が集約されている気がします。
そして専業主婦の格を徹底的に押し下げ、低学歴でも務まる都合の良い奴隷のように貶めました。知性も品位も喪失した狂気の為せる業です。
彼女たち活動家が世の大半の女性たちに侮蔑や差別を振りかざしてきた張本人です。しかし女性らしい素養を身に着けるのは彼女たちが思うほど簡単ではない筈です。特に心が成熟していない内は。
男だろうが女だろうが、何を望んで何を選択するかは本人の自由です。しかしその為に捧げねばならない代償は必要だし、諦めねばならない犠牲も必要です。
男だろうが女だろうが、自分のやりたい事を優先して家庭を犠牲にすれば何かが壊れるのは当たり前。しかしパートナーがそれを支えるのは当たり前ではなく、理解ある相手に出会うのも当たり前ではありません。
その強要は傲慢そのもの。相手の理解を当たり前にして甘え続ければ小さなヒビがやがて建物全体を損傷させるでしょう。
家庭に費す時間もなしに家庭で得られる幸福は手に入りません。何も差し出さずに望むものを得ようとしても失敗するのは当たり前。その自覚が足りない内は心は未成熟で拙いまま。
だから大多数の男はフェミニストが馬鹿にする『料理や家事や育児が好きな家庭的な女性』を結婚相手に望むし、そういう女らしい素養に男は心から敬意を払います。
しかしその敬意を侮蔑と受け取る人の声がこの世界では一番大きい。だからこんな事になっているのでしょう。
生き方を選択出来るようになったとはいえ、結婚して家を守る事を望んでいる女性は今でも多い筈です。そういう人たちは声が大きい人の言う事は全部無視して下さい。
周りの意見に左右されず、必要な素養に努力を払い続けた者が自分を一番幸せに出来るんです。そして自分を一番幸せに出来た者が、この世で一番の成功者です。
ちなみに長々と書きましたが、この曲でポリコレに関する歌詞はほんの一行しかありません(笑)。