サネカズラの契り

少し前にロックにこだわった楽曲を作ると言っておきながら、新曲は真逆のスローバラードになりました。歌詞に関しては本来は何を歌っているのかを説明したくないんですが、この曲に関しては詳細を書きたいと思います。

これは私の祖母の歌です。祖母の立場で書いた女歌です。

最初にこのメロディーが浮かんだ時キーになる歌詞も一緒に出てきて、これが『残された者の歌』だという事が分かりました。

まず震災の事が頭を過ぎりましたが全く書けない。当事者でない人間が書いていいものではないとも思いました。そしてこの曲のモデルを祖母に決めてからは何の苦もなくすらすらと書けるようになりました。

私の祖母の家は元は田舎の地方豪族で日本武尊の末裔の分家です。家紋は家紋辞典にも載っていない天叢雲剣(草薙の剣)の珍しい家紋。なんでも日本に一つしかない家紋とか。本家は北勢四十八家として織田信長に敵対し、信長の北伊勢侵攻で滅ぼされています。

家紋兼神社の神紋

祖母は十代の若い頃、同郷の村長の息子と恋に落ち大恋愛の末結婚をしました。しかし祝言をあげるとすぐに夫は戦地へと向かいました。年代的に日中戦争のはずなので赤紙の招集はまだなく、20歳の常備軍の兵役だったのか志願兵だったのかは不明です。

祖母は嫁ぎ先の家で夫の帰りを待ちますが無惨にも戦死の知らせが届きます。祖母は子もないまま未亡人になりました。

まだ若かったので周りの勧めで新たに縁談が組まれ、祖母は再婚して二人の子を儲けます。長男は幼い頃に庭の池で溺死。祖母はちょっと目を離してしまった事を生涯悔いていたそうです。そしてもう一人は私の叔母。その後祖母は離婚をします。

まだ24歳だった祖母は再び周りの勧めで再婚し、終戦の翌年に子を産みます。私の母です。しかし相手は夫ではなく隣家の医師。母は後に父親と血液型が合わない事でその事実に気付きます。

祖母は再び離婚して2歳の母を実家に連れ帰りますが、祖父の縁者が押し掛けて母だけ連れ去られます。その後祖父は三度目の結婚、祖母は4度目の結婚をして73歳で亡くなりました。

私が初めて祖母と会ったのは祖母の葬儀の時。高3の時でした。その数年前に母は祖母と約40年振りの再会を果たしており、その後は病床の祖母や叔母とも交流を持つようになっていました。その葬儀で私も初めて叔母に会いました。

母が聞いた話では祖母は戦死した最初の夫が死ぬまで忘れられなかったそうです。好きで好きでたまらなかったと。写真が残っていますが男前です。祖母も美人だったので戦争がなければ似合いの夫婦として共に過ごし、好きでたまらなかった夫を嫌いになれた別の未来もあったかも知れません。

祖母は大正生まれの女には珍しく、自分がこうと思ったら我を貫くタイプの人だったようです。また捨てられている猫を見つけては家に連れ帰るので、家の中は何十匹も猫がいる猫屋敷だったとか。

元々は犬派だった私がある時期を過ぎてから猫の事しか考えられなくなったのも、眠っていた祖母の血が目覚めたのかも知れません。最も私は猫を飼う事を自重し続けていますが。

祖母の人生は喪失感に塗れた辛いものでした。でもそこには不条理な因子と自身の身勝手な因子とが入り混じっていたように思います。戦争の被害者である反面、自分のせいで迷惑を被る者が祖母の周りにはいたのではないでしょうか。

二心のある依存と拒絶の矛盾が周りの人間を巻き込んで新たな業を作り、それで母は子供時代苦労をしたし、叔母は私の母の葬儀の時に祖母の事を『大っ嫌いだった』と語っていました。深くは聞けませんでしたが叔母には叔母で色んな想いがあったのだと思います。

でも私はなぜかそんな祖母が好きです。祖母と似た性質を自分の中にも強く感じています。身内でありながらも他人事でいられたから祖母の事をフラットに見る事が出来、傍観者だから祖母の悲恋を切なくも美しく感じ、親近感があるから当時の祖母の心情を想った途端に詞が溢れるように出て来ました。

そのまま曲にしたら10分を超えるボリュームになったので、波乱にとんだ祖母の人生の初恋の悲恋のみに焦点を絞って纏めました。

祖母の再婚に関しては今の基準で考えることは出来ません。この時代では仕方がなかった事だと思います。四度の結婚の内三度は戦時中です。今のように一人で生きていける時代ではありません。

一般家庭にガスや水道や洗濯機、冷蔵庫が普及し、スーパーが出来るのはまだ先で、女性が一人で自立して生きていける時代もまだ先。周りと協力し合わなければ生活が成り立たなかった時代です。

男に依存しなければ生きる事が難しかった昔の女の立場や、田舎特有の世間体もあったでしょう。

ただ最初が恋愛結婚の死別だっただけに、よく知りもせず好きでもない男と結婚するのは祖母には辛かったと思います。受け入れようと努力はしたものの、やはり無理だったという所が近いのかも知れません。縁談を断れなかった理由が何か他にあったのかも知れません。

それに祖母は元々の性質がもの凄く一途な人だったんだと思います。だから身勝手の中にも一貫した芯のようなものが感じられ親近感を覚えるのだと思います。

叔母は大っ嫌いだったと言ってましたが、祖母の葬儀の時、焼かれて骨だけになった祖母を見て一人泣き崩れていたのも叔母でした。その姿を印象的に覚えています。

母も子供時代から苦労して結婚した後も、離婚した後も苦労ばかりした人でしたが、私の知るどの人間よりも愛に溢れた人でした。人と争う事が嫌いで自分が我慢して済むなら迷わずそちらを選ぶ人。

世話好きで人が喜ぶ事や人の為に何かをするのが好きだけど、その性質には人の悪意や打算に利用されやすい危うさもあり、年を取ってからは人との距離感を上手に取るようになっていました。でも心から信用した相手には無償の愛を注ぐ。そんな人でした。

私はずっと不思議でした。愛を与えられてこなかった人間がなぜこんなに愛に満ちた心を持てるのかと。でも祖母にも似た性質があったのなら少し納得が出来ます。

ただ分からないのが母の本当の父親の事。当時の祖父の家は名古屋の向島にありました。名古屋駅から4kmほどの住宅地です。家人の多い隣家同士で戦時中に不倫関係にあるのは難しく、肉体関係を持てるような場所もない。

でも疎開して相手の家に人がいなくなっていたなら可能な話。ではなぜ祖母は疎開していなかったのか。

母の生年月日から逆算して祖母が相手と行為を持ったのは1945年の4月。同年3月には二度の名古屋大空襲が市街地を襲っています。祖母のいた中村区も中心地が被害に遭い名古屋駅も炎上しています。祖母はもうそこで死ぬつもりだったのだろうか。それを運命の天秤に委ねていたのだろうか。

明日どうなるかさえ分からない状況で理性的な判断を捨てて相手を受け入れたのか。それとも望んだ事だったのか。そもそも不倫だったのか無理やりだったのか。今となっては真相は誰にも分かりません。ただ胸糞悪さだけが残っています。

祖母に対してではなく、何の報いも責任も果たさず不義の子を作り、身勝手に血脈を乱しておきながら全部無かった事にして傍観した相手の卑怯な性根に対して。両親の離婚原因含め、私の不倫に対する嫌悪感の源です。最もそれで当時の祖母が救われていたのなら話は別ですが。

一途で一度こうと思ったら意思を曲げる事が出来ず、最初の夫を生涯想い続け、その想いに縛られ、喪失と別れを繰り返した祖母の人生。最後の結婚後の40数年は穏やかでいられたのだろうか。

何を思い何を感じて生きていたのか。何が好きで何が嫌いだったのか。どんな音楽が好きだったのか。捨て猫を放っておけなかったのは贖罪だったのか。戦時中の事や祖先の事、大好きだった最初の夫の事。祖母には直接会って聞きたい事が沢山ありました。

これはそんな私の祖母『はる子』さんの歌です。

祖母の初婚 (1937年頃)
祖母の三度目の結婚 (1943年)

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