ロックの歴史【ロックの終焉編】
前回の続きです。
ビートルズと同世代のバンドという事で、よく比較されたのがローリング・ストーンズ。デビュー前からオリジナルを演っていたビートルズと違って、最初期のストーンズはブルースのカバー・バンドでした。
元来タイプの違うバンドなので、ストーンズのメンバーは何かとビートルズと比較したがる記者の質問にうんざりしていた事でしょう。
とはいえジャガー/リチャーズのソングライティングも、ある時期まではビートルズの後追いで似たコンセプトの曲を作っていたので、かなり意識はしてたんでしょう。
ビートルズは1970年にバンドを解散しますが、結成50年以上経つストーンズは今でも現役。
以前私はミック・ジャガーが何かのインタビューでバンドを長く続ける秘訣を聞かれ、『成功』と答えた映像を見て妙に感心しました。非常に頭が良い人なのだろうと。
これはバンドを続けられなかった人が達する本音であり、成功者のミックが語る言葉ではありません。それを自覚してるという事は、普段から物事の本質を捉えようとする理知的な人なんだろうと思いました。
ビートルズはスタジオ技術の革新と共にそのサウンドを変化させていきますが、ストーンズもマネージャーのアンドリュー・オールダムの意向で早い段階でオリジナルの作曲を始める事になります。
この時アンドリューに曲作りの指名をされたのがミック・ジャガーとキース・リチャーズ。ブライアン・ジョーンズ苦悩の始まりです。
アンドリューはマネージャーとしては凄腕でも、音楽に関しては無知だったようで(自分でも認めています)、初期のストーンズのサウンドを特別にしていた心臓部がブライアンだった事は見抜けなかったようです。
それ以降ブライアンは(公式には)曲作りに参加させてもらえず、リーダーの座もミックやキースに明け渡します。
そしてストーンズは’65年に『サティスファクション』。’68年に『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』を作ります。
曲のタイトルを聞いて思い浮かべるのは、メロディーよりも印象的なギターリフ。
この二曲こそロックの先駆けと呼ぶに相応しいターニング・ポイントでしょう。特にジャンピン・ジャックのような曲が’68年に生まれた事は奇跡です。それ以前にこんな曲はどこにもなかったのだから。
ストーンズはブルースの手法や奏法をベースにして、更に刺激的なサウンドを生み出すロックバンドへと変貌を遂げていきます。ストーンズに限らず、ロックミュージックとは刺激の上塗りの歴史であり、退屈への足掻きとして若者のカルチャーを牽引していました。
ビートルズはマネージャーのブライアン・エプスタインの戦略で、若者だけでなく親世代にも好意的に受け入れられるイメージを作りましたが、ストーンズのマネージャー・アンドリュー・オールダムはその真逆のイメージをストーンズに作らせます。親が否定するものほど若い連中は夢中になるからです。
その結果ストーンズは若者からは熱狂的に受け入れられる反面、親世代の大人からは徹底的に嫌われました。長髪や汚い服装をなじられ、ツアーで宿泊するホテルやレストランでは差別や嫌がらせを受け、警察や司法など国家権力からも嫌悪され、メディアの過剰な報道によって野蛮な怪物のような扱いを受けていきます。
ストーンズは自分たちへの嫌悪感を隠そうとしないステレオタイプな旧世代の人間や、権威への反感を一層深め、自分たちとファン以外は皆敵という図式が徐々に出来上がっていきます。
今でこそ海外には『個性』を大切にするイメージがありますが、当時の欧米はまだ保守的な時代で、同じ髪型・同じ格好が当たり前。男は全員短髪でシワのないシャツにスーツが好ましかった時代です。
それが1960年代半ばからロックカルチャーが若者に新たな価値観を与え、自由な髪型、自由なファッション、自由な生き方を模索するようになり、その影響を受けた人間が親世代になる頃には、世間の常識も様変わりするようになります。
現代の多様化した価値観が当たり前に認められるようになったのは、人類史の中でまだここ50年程度の話です。この時代のロックは確かに世の中を変えた歴史の一幕を担い、ファッションとも密接に連動していました。
そしてこの時代の(これ以降も)バンドと切っても切り離せないものがドラッグ。
60年代のアメリカではベトナム戦争の泥沼化と共にヒッピー・ムーブメントが沸き起こります。『武器ではなく花を』と花を掲げて、髪と髭を伸ばした自然主義者達のフラワー・チルドレン。
彼らは公民権運動を支持し、反戦、徴兵拒否、ラブ&ピースを訴え、自由に生きる事を体現しようとします。その時に用いられたものがLSD。アシッドとも呼ばれるドラッグです。60年代のバンドも例に漏れずこのブロッター・ペーパーを舐めて、シラフでは書けないサイケデリックな曲を残しています。
アシッドの幻覚は本当の自分との対峙だと信じられていました。彼らヒッピーは心の赴くままに自然主義的なフリーセックス、マリファナ、アシッド、そしてロックのエネルギーに身を任せます。そこに真の自由が宿っていると信じて。
そうしてセックス、ドラッグ、ロックンロールを合言葉に、彼らヒッピーはウッドストックを目指して旅に出ます。そこに行けば何かが分かる、何かが変わると信じて。
1969年の夏、40万人を超えるヒッピー達がホワイトレイクの地に集い、自由気ままにマリファナを吸い、セックスをし、夜通し音楽に身を委ねます。
そして三日後、ウッドストックの終焉と共に彼らの旅も終わりを告げます。何かが変わると信じ辿り着いた終着点、そして結局何も変わらなかった。
ウッドストックの幻想はそこに辿り付くまでがピークで、トリのジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌に大量の爆弾を落としてステージから去った後、そこに残ったのは大量のゴミの山だけでした。
そして彼らは思い知るのです。この旅がただの逃避行でしかなかった事を。ヒッピー・ムーブメントは現実逃避の虚妄でしかありませんでした。
1969年の冬、もう1つの重大な事件があります。『オルタモントの悲劇』です。まずはこの事件が起こるに至った簡単な経緯を。
ビートルズは1966年の夏以降ライブを行わなくなります。理由はツアーの過酷さと誰も自分達の音楽を聴かない為。当時のビートルズのライブの客層は若い女性ばかりです。そして女達は終始叫び声を上げます。そしてバタバタと失神&失禁して倒れていきます。
ジョンとポールが首を左右に振る度にバタバタ。ジョンとポールがシャウトする度にバタバタ。
今では考えられない事ですが、当時はああいう状況への免疫がなさすぎたのでしょう。心の昂ぶりを表現する手段が分からず、ただ金切り声を上げて集団ヒステリーに陥る。
ストーンズのライブでも同様の事が起こっていましたが、彼らのライブには次第に男が増えていきます。では金切り声を上げる女に対比して男はどうしたか。暴れるのです。暴徒と化しました。だからストーンズのライブには警察沙汰が多かった。
要はフーリガンと同じです。日常的な不満や抑圧を抱えた労働者階級の男たちが、その捌け口としてストーンズのライブを選び、群衆は暴れる矛先を権威の象徴である警察に向ける。そしてそれを煽る曲をストーンズが群衆に捧げ暴動が起こる。ストーンズ自身も暴動の被害を何度も受け、機材や楽器を破壊されています。
ストーンズは優等生のビートルズのアンチテーゼのイメージを強くしていきますが、それが当局やメディアの反感を買い、1967年ミックとキースがドラッグの不法所持で逮捕。ミックに3ヶ月、キースに1年の実刑判決が下されます。
しかしファンの抗議、或いはキースのいう『後ろ盾』のお陰で控訴審ではミックに執行猶予、キースの有罪判決は破棄に変更。そして1968年『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』発表。
これ以降反体制を前面的に押し出し始めたストーンズの音楽には、確かにロックが世の中を変える気配が漲っていました。そしてミックやキースもその役割を演じ切っていたように思います。
1969年7月3日ストーンズの初代リーダー、ブライアン・ジョーンズが27歳で急死します。
ストーンズがミックとキースのバンドになるにつれ徐々に居場所を失い、不安定な精神を補う為に酒とドラッグで衰弱してパラノイアになり、バンド内では村八分に遭い、キースには恋人のアニタを奪われ、自分の立ち上げたバンドで自分のやりたいブルースも出来なくなったブライアンは次第にスタジオに現れなくなり、ストーンズを脱退(クビ)。
ブライアンに近しい関係者の話ではその頃には既にドラッグを克服して酒量も減り、精神状態も以前より安定し、新しいバンドの結成に向けて再始動をしていたという証言もあるようです。しかしブライアンはバンド脱退の約一月後に自宅のプールで溺死体で発見されます。
二日後にロンドンのハイド・パークで行われる予定だったフリー・コンサートは、急遽ブライアンの追悼コンサートに変更。そしてストーンズがこの時会場の警備を依頼したのが、イギリスのバイカー集団『ヘルズ・エンジェルス』です。
国家権力の手を借りたくなかったのか、或いは怒りの対象となる警察がいなければ暴動も起きないと踏んだのか、結局この追悼コンサートでは暴動もなく2年振りのライブを成功させています。
ハイド・パークでの成功を受けたストーンズは、12月6日にオルタモント・スピードウェイでトリを務めるフリー・コンサートの警備に、今度はアメリカのヘルズ・エンジェルスを起用します。だが本家アメリカのヘルズ・エンジェルスはイギリスとは全くの別物でした。
彼らのお粗末な警備でステージには見知らぬ人が上がり、見知らぬ犬が歩き、喧嘩を始めた観客をヘルズ・エンジェルスが暴行し、その度に演奏は中断され、ストーンズが登場する前から30万を超える会場には不穏な空気が漂っていたようです。
ミックはその報告を逐一受けますが『彼らに任せておけば問題ない』とこれを一蹴。
ストーンズが登場してからも度々喧嘩が始まり演奏を中断。ミックもキースも客を落ち着かせようと訴えます。
そして『アンダー・マイ・サム』の演奏中、ヘルズ・エンジェルスが客の黒人青年を刺殺。ステージ上では殺人に気づかず最後までライブを敢行。終わってみれば4人の死者が出た惨事となっていました。
ミックはこのオルタモントの悲劇を重く受け止めたようで、これ以降のストーンズの音楽をエンターテインメント路線に一新します。客が楽しんでこその音楽、客を楽しませるのが自分達の役割。そう舵を切り替え、会場の警備も警察に一任し、反体制から脱却します。
この1969年のウッドストックとオルタモントの悲劇が、事実上のロックの終焉だったと捉える人は多いです。私もそういう認識です。
得体が知れなかったロックの混沌としたエネルギーは、これ以降良質なエンターテインメント路線の一本化に収まり、どんどん秩序化されて産業化が進みます。フリーコンサートもなくなって音楽は完全にビジネス化します。
そして1976年のイーグルスの名曲『ホテル・カリフォルニア』でロックとヒッピー文化がとうに終焉していた事をみなが悟るのです。
それ以降残ったものはかつての残照。セックス・ドラッグ・ロックンロール、反体制、ラブ&ピース。それらはもうとっくに死んだロックの抜け殻で、それを飯の種にするメディアの悪あがきがいつまでもそこに踏み止まらせ、ロック=露悪的、反体制、ドラッグ&セックスという固定観念に縛り付け、それを真に受けた若者がそのイメージを踏襲していく訳です。
だがロックの精神性は死んでも、音楽性には進化の振り幅がまだ残っており、パンク、ニューウェーブ、LAメタル、グランジと凡そ5年周期で新たな刺激を与えていく事になります。
70年代後半のパンク・ムーブメント以降はロックは誰でも(高度な技術がなくても)出来るものに変貌し、90年代のグランジ以降はかつてのロックスターが担っていたトリックスターとしての神性は完全に喪失して、ロックアイコンは大衆と同化していきました。
ロックが音楽的な進化を果たすほど、その本質は緩やかな退化へと向かっていました。
そして21世紀、進化と退化の底に辿り着いたロックは刺激のない有り触れた音楽になりました。その精神性も音楽性も完全に終焉を迎えたのです。今やロックはただのファッションで、死にかけたエンタメツールに成り果てています。
私はそれが良い事だとも、悪い事だとも思いません。流行りは必ず廃れるものであり、本物だけが時代を超えて生き残ります。ロックが産業化した時点でそれらは単なる流行り物に過ぎず、ごく僅かな本物がその中に入り混じった状況になっていました。
最後にもう一つ有名なロックのエピソードを。先に挙げたブライアン・ジョーンズの死ですが、ブライアンの死の約一年後の1970年9月18日にはジミ・ヘンドリックスが死去します。その半月後の10月4日にはジャニス・ジョプリン、翌年の7月3日にジム・モリソン。彼らはこの時代の代表的なロック・スターですが、皆一様に27歳で急死しています。
この27歳の死で連想されるのがデルタ・ブルース編で触れたロバート・ジョンソン。十字路で悪魔に魂を売ってギターの腕を手に入れ、27歳で急死したという謎多きブルースマンです。
そして彼らに共通するのが”J”のイニシャル。彼らはジョンソン伝説にあやかって悪魔と契約を交わし、名声を得た代償に27歳で命を奪われたという憶測が生まれました。
勿論ただの伝説ですが、この時代を象徴する出来事の一つといえるでしょう。彼らの死もまたロックの終焉を物語っていました。