名易えの謎

久々に古代史ネタです。今回は名前にまつわる話です。長いです。過去最高の長文の歴史ミステリーです。

昔の名前には『諱』(いみな)と『仮名』(けみょう)の2種類がありました。時代が経つとこれに自分の出自を表す『家名』や『氏』が苗字として加えられます。

古代では名前には本人の魂が宿り、他人に自分の本当の名を知られる事で魂を支配されるという通念がありました。決して人には明かさない自分の本当の名は諱や真名(まな)と呼ばれ、便宜上人の名は官位名や仮名で呼ばれました。

その風習は次第に弱まっていきますが、なにか呪詛的な目的でもない限り、諱で相手を呼びかける事は大変失礼な事でした。

今では歴史上の人物を平清盛や織田信長と当たり前に呼称してますが、当時は平清盛なら平太殿、太政大臣以降は相国様。織田信長なら元服前は三郎殿、それ以降は上総介殿や右府様と呼ばれ、家臣が清盛様や信長様と諱を呼ぶ事はあり得ませんでした。

官位を持たない武士でも~右衛門や~左衛門、~兵衛という仮名を必ず持ち、その風習は明治以降の戸籍の改正まで続きます。

御霊の分霊に見立て、祖先や崇拝する人物から諱の一字を貰う『偏諱』(へんき)という風習や、相手を役職名(社長、課長など)で呼ぶ風習は現在にも受け継がれています。

『自分の本当の名を知られると相手に支配される』という通念は日本に限らず世界中にありました。

古代中国では『諱』と『字』(あざな)があり、諱の呼称は禁忌とされていました。古代インドにも『密名』と『通名』があり、密名の呼称は禁忌。古代エジプトも『真の名』と『良い名』があり、真の名は禁忌でした。

旧約聖書の出エジプト記では、シナイ山に登ったモーセが唯一神から十戒を授かる時、『主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない』と告げられています。

古代ユダヤ人が神の名を口にする事を禁忌とし、旧約聖書の原本も母音表記のないヘブライ語で書かれている為、この神の正確な発音は今では消失しています。四つの子音文字から成るこの神の名は現在『ヤハウェ』や『エホバ』などと呼ばれています。

グリム童話の『ルンペルシュティルツヒェン』も名前にまつわる呪詛をモチーフにしています。貧しい男が『自分の娘は藁を紡いで金に変える事が出来る』と王に告げ、王は娘を塔のてっぺんに監禁し、三日後の朝までに金を紡げと迫ります。出来なければ殺し、出来れば王妃にすると。

困った娘の元に小人が現れ、ネックレスや指輪と引き換えに金を紡ぎますが、もう引き換えるものがなくなった最後の晩、小人は『最初に生まれるお前の子供と引き換えに金を紡いでやる』と言い、その条件を飲んで王妃になった娘は、その後最初の子供を産み約束通り小人が現れます。

子供を連れ去られたくない王妃の懇願に折れた小人は『では三日後までに自分の名前を当てたら連れ去るのをやめてやる』と約束します。その後色々あって、小人の名前がルンペルシュティルツヒェンと知った王妃がその名を告げると、小人は怒り狂って自分を引き裂いて死ぬという話です。

グリム童話の原本には面白い話が多く、人間主体のストーリーへのアンチテーゼでもあり、人の心の闇をよく描いています。この話も登場人物の小人と人間を入れ替えたら全く違う印象の話になっているでしょう。

一時期グリム童話の初版は残酷な話だとホラー的要素ばかりが話題になってましたが、グリム童話が残酷なのでなく、人間が生来残酷な生き物なんです。

グリム童話では人間の残酷さも純粋さも等しく描かれますが、人の純粋さは人の残酷さの前に容易く屈します。その現実をグリム兄弟は赤裸々に寓話として描いているにすぎません。

近年の話で有名なものでは、宮﨑駿監督の『千と千尋の神隠し』。ここにも諱をモチーフにした場面があります。千尋という名を奪われた千は湯婆婆に支配されて湯女(ゆな)となり、本当の名を忘れれば元の世界に戻れなくなるとハクから教えられます。

そして千のお陰で自分の本当の名を思い出したハクは、湯婆婆の支配から逃れる力を得ます。

この話の裏にはもし生きる力を取り戻せなければ、生涯湯女として湯婆婆に支配される未来もあったというダークな側面があると思います。

アニメの舞台の油屋は八百万の神々が立ち寄る銭湯ですが、江戸時代に湯女たちが働いていた湯女風呂では垢すりや髪すきだけでなく、売春も行っており、幕府が禁止をしても取り締まる事は出来なかったそうです。

当然アニメの中でそんなシーンを入れる必要性はありませんが、油屋の艶やかな配色といい、湯女という呼称といい、そんな裏設定もあったのではと勘ぐってしまいます。

宮崎監督が作る作品には単なる子供向けのアニメには収まらない深みと、寓話的・神話的なオマージュが多分に潜んでいる気がします。だから面白いんでしょう。

さて、これら名前に宿る呪術的な側面を踏まえた上で、記紀に記された話で一際興味深い場面を挙げます。第15代応神天皇と気比大神(けひのおおかみ)の名がえの話です。以下日本書紀の記述を要約します。

応神天皇が太子(ひつぎのみこ)になった時、越の国の角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおおかみ)に参拝した。その時笥飯大神と応神天皇が名を入れ替えて、笥飯大神が去来紗別神(いざさわけのかみ)となり、応神天皇が誉田別尊(ほむたわけのみこと)となった。

角鹿とは現在の福井県の敦賀で、笥飯大神は氣比神宮の主祭神・気比大神の事です。古墳時代の人物、ましてや天皇の名は仮名や諡(おくりな)だと思いがちですが、和風諡号にそのまま諱が記されている天皇もいます。応神天皇の和風諡号・誉田(ほむた)も諱とされています。

しかしこの記述では応神天皇の元の名はイザサワケで、気比大神の元の名がホムタワケとなります。古事記には更に詳細な記述があります。

神功皇后の摂政時代に大臣(おおおみ)の武内宿禰(たけのうちのすくね)が太子(ひつぎのみこ)の応神天皇を禊(みそぎ)に連れ出し、角鹿に仮宮を造って住まわせた。その時伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)が夢に現れ、『我が名を御子の御名に変えたく望む』と言い、武内宿禰がそれをかしこみ了承すると、明朝、名を変えたしるしに謝礼の贈りものを浜に届けると言われる。翌朝武内宿禰が浜に出掛けると、鼻が傷だらけのイルカが供物として浦一面に打ち上げられていた。

この話には研究者によって様々な解釈がありますが、どれも納得出来るものはありません。以前も書きましたが、日本の古代に於いて神というのは人です。

伊吹山の荒ぶる神も、気比の大神も、その時代その土地に勢力を有していた人物やその祖神に当たる人。そして天皇家は歴史的に万世一系ではありません。

私はこの話は4世紀中葉~末に王朝交代のクーデターが起こり、応神天皇が新たな大王(おおきみ)として即位した事を伝えるエピソードだと捉えています。

記紀の記述では古代の天皇は100歳以上の長寿が多く、皇紀も2600年とされていますが、これは記紀の編纂時に何人かの古代の天皇に60~120年の干支を水増しして、天皇家の歴史を780年古くしている為です。

実際のヤマト王権の始まりは3世紀中葉~末、第10代崇神天皇が巻向に王朝を築いた時だと思われます(巻向の遺構や出土品の地層とも年代が一致します)。

おそらく2世紀初頭~中葉(日本書紀では121年、古事記では133年)に神武天皇の東征で最初に王朝が築かれ、それ以降各地で銅鐸が破壊され地面に埋められていきます。

この時先に畿内を支配していた勢力が天火明命や饒速日命、更にそれ以前の奴の国の大国主命。それら筑紫出身の出雲系氏族だと思われます(元々出雲は丹波~大和に掛けての地名で、山陰の出雲は後から出雲系氏族が移住して『多具(多久)の国』から『出雲の国』に名を変えたものと思われます。元明朝(707~715)には大国主命の御霊が丹波の出雲大神宮から杵築宮(出雲大社)に遷されます)。

神武天皇の即位から数十年後、国が入り乱れて争う倭国大乱が起こります(146~189年)。

この時神武系の王と出雲系の王が丹波や吉備の勢力を交えて争っていたものと思われます。そして祭祀を司る卑弥呼と、政(まつりごと)を司る出雲系の王(事代主命)が共立して国が治まります。

卑弥呼の死後再び国が乱れると、13歳の台与が新たな日の巫女となって出雲系の王(大物主命)と共立し、再び国が治まります(247年)。

記紀の記述には第2代綏靖天皇~第9代開化天皇の記述がほとんどなく(欠史八代)、中国の歴史書からこの期間が倭国大乱~女王共立時代に相当する事が分かります。

記紀の編纂時にこれを万世一系に繋げた為、この期間の系図(特に天皇の血胤)には多くの矛盾が生じているものと思われます。

崇神天皇は台与の最後の朝貢の266年以降に政権を奪取した神武系の王であり、祭祀者と王による共立統治から、祭政一致の統治を果たした最初の大王だったと思われます。

日本書紀では神武天皇と崇神天皇の二人に『はつくにしらすすめらみこと』の敬称が与えられています。【初めて国を統治した天皇】という意味です。

古事記では崇神天皇だけに『はつくにしらししすめらみこと』の称号が与えられています。

崇神天皇が即位をすると前方後円墳の築造が始まりヤマト王権に帰属した国へと伝播していきます。更に四道将軍を派遣してヤマト王権の支配圏を拡大し、晋への朝貢を廃止します。天神地祇の祭祀もこの時から始まり、初めて天照大神や大物主命が神として祀られます。

これは宮中への祟りを鎮める御霊会だったと考えられます。つまり天照大神や大物主命は崇神天皇に祟る存在で国を奪われた側という事。

であるなら天照大神の正体は台与(或いは卑弥呼~台与一連の祭祀者)であり、大物主命は共立した出雲系の王と比定されます。

崇神天皇が三輪山周辺に築いた三輪王朝は第14代仲哀天皇まで続きますが、そのおよそ100年後、第15代応神天皇は河内に王朝を遷します。この間記紀には気になる記述があります。

第12代景行天皇がなぜか都を巻向から大津の高穴穂宮に遷しているのです。そしてそのままそこで死去します。

続く第13代成務天皇も都を遷さず高穴穂宮に死ぬまで留まります(この時代新たに即位した天皇は都を遷すのが通例でした)。

歴史上、大津に都を遷した天皇はもう一人います。天智天皇です。

667年に天智天皇は都を飛鳥から近江大津宮に遷都しています。その理由は言及されていませんが、663年の白村江の戦いでの大敗を受け、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れ大津に逃げ延びたか、或いは天武天皇のクーデターを逸早く察知してそれに備えたのでしょう。

大津は天然の要塞であり交通の要衝。つまり大津への遷都にはそうした意味合いがあるという事です。

景行天皇の皇子・日本武尊の死にも不自然な点があります。日本武尊は東征を終えた帰り、宮簀媛がいる尾張氏の拠点・火高火上に留まります。そこで伊吹山の荒ぶる神の話を聞き、それを退治しに出掛けます。この時叔母の倭姫命(伊勢斎王)から賜った神剣草薙の剣を宮簀媛の元に置いていきます。

伊吹山の戦いで足に傷を負った日本武尊は尾津の崎まで辿り着きます。そこから船に乗れば宮簀媛のいる火高火上まではすぐの距離。そこで傷付いた体を癒やす事も、草薙の剣を取り戻す事も出来たのに、なぜか日本武尊は尾張氏の拠点には向かわず、一つの歌を詠みます。

『尾張に直(ただ)に向へる 尾津の崎なる 一つ松 吾兄(あせ)を 一つ松 人にありせば 太刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 吾兄を』

【尾張に向かって真っ直ぐに立つ、尾津の崎の一本松よ、お前よ。人であれば太刀を佩かせるのに、着物を着せるのに。ああ一本松よ】

日本武尊は東征に向かう折、この尾津の崎で刀を一本松に掛けて忘れていきました。そして東征を終えて伊吹山の神に敗れ、再びこの尾津の崎に戻って来ると、置き忘れた刀がそのまま残っていました。

この歌はその時に詠まれたものですが、それにしては内容が少し不可解です。この歌は一本松を『尾張に向かって立つ兵士』に見立てたものです。

そして日本武尊は傷を負った体で西の大和(或いは亀山の忍山宿禰の元)へ向かい、能褒野で息絶えます。

日本武尊は死の間際もう一つ不可解な歌を残しています。

『命のまたけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子』

【命が無事な人は、平群の山の大きな樫の葉で髪を飾りなさい】

たたみこもは平群にかかる枕詞。『重なる、連なる』という意味で、平群の山とは平群氏の治める矢田丘陵です。花や枝で髪を飾るのはその土地の加護を受け、無事を祈る呪術的な意味合いを持ち、熊樫の葉の場所を指定しているのは『命が無事な人は平群氏に恭順しなさい』というメッセージになります。

日本武尊が戦い敗れた伊吹山の神とは、その地を治めていた伊福部氏の事だと思われます。伊福部氏は天火明命の後胤で尾張氏とは同族。尾張氏も天火明命の末裔で第11代垂仁天皇の頃に葛城高尾張邑から尾張に移住した氏族です。

日本武尊が尾張で傷を癒やさず、西の大和に向かいその途上で力尽きたのは、尾張氏が伊福部氏と共謀して自分を罠に嵌めた事を察したからではないでしょうか。尾張氏は当主の建稲種命を日本武尊の東征で失っています。

建稲種命は日本武尊の東征に副将軍として従軍し、東征を終えて日本武尊と別れ、水路で帰路につく途上で駿河の海で謎の水死を遂げています(伝承では覚賀鳥の鳴き声を聞いた建稲種命が日本武尊に献上しようと後を追いかけ、誤って海に落ちたとされています)。

伊吹山の戦いで日本武尊が陣を張った雲雀山は息長氏の領地のすぐ北に面しており、息長氏もこのクーデターに関わっていたものと思われます。

息長氏は伊吹山山麓の旧坂田郡を拠点とし、天野川流域の琵琶湖北東部を勢力圏に持っていた渡来系氏族で、神功皇后の出自先でもあります。

当時敦賀から琵琶湖東岸にかけては技術を持った渡来系集団が領地を与えられていました。彼らは製鉄技術、文字の伝達、通訳として重宝され、交易に欠かせない存在でした。

それら渡来系氏族を纏めていた棟梁が葛城襲津彦。葛城氏も平群氏も武内宿禰と所縁の深い氏族です。

そして景行天皇は日本武尊の死を受けて北の平群氏と南の葛城氏による挟撃から逃れるように大津へと都を遷し、景行天皇と成務天皇はそこで逝去します。

第14代仲哀天皇が即位をすると息長氏の気長足姫(神功皇后)を皇后に迎えます。これは圧力を受けての事でしょう。

その後仲哀天皇は大津を出て敦賀の笥飯宮(けひのみや)に行宮を立てます。前述した名がえをした笥飯大神のいる場所です。これも神功皇后の意向を受けてのことでしょう。息長氏と笥飯大神には密接な繋がりがあったと思われます。

笥飯大神の正体は新羅から来た天日槍とも、意富加羅国(伽耶の国)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)だとも言われています。

天日槍が新羅から持参した八種神宝の一つに、胆狭浅(いささ)の大刀という神宝がある事から、イザサワケと関連付ける説もありますが、天日槍はその後但馬の国に行きそこに留まるので、イザサワケは伽耶の国に所縁を持つ神なのかも知れません。

仲哀天皇は笥飯宮に神功皇后を残して今度は紀伊へと向かいます。そして名草の徳勒津宮(ところつのみや)に留まります。

木の国名草もまた武内宿禰と所縁の深い場所。このニヶ所の神域で仲哀天皇は何らかの誓約をさせられたものと思われます。

徳勒津宮で熊襲が背いた知らせを受けた仲哀天皇は今度は穴門の豊浦津(下関)に向かいます。神功皇后も敦賀から船で豊浦津に向かい、そこで仲哀天皇と合流します。

そこから共に筑紫に渡り、香椎宮で仲哀天皇が亡くなります。そして摂政となった神功皇后は真っ先にある神を祀ります。

①伊勢の度会の五十鈴の宮の撞榊厳魂天疎向津姫命【天照大神の荒御魂】
②尾田の吾田節の淡郡にいる神【稚日女命】
③天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代神【事代主命】
④表筒男、中筒男、底筒男【住吉三神】

①と②は王と共立した卑弥呼とその後継者
③は卑弥呼と共立した出雲系の王
④はここで突然祀られる謎の神です。

記紀では住吉三神はイザナギが黄泉の国の穢れを落とした際、綿津見神(海神)と共に生まれた三柱の神です。ただそれが仲哀天皇の死と同時に突然祀られるのは不自然であり、これが御霊会で祀られたものなら、その正体は景行天皇、成務天皇、仲哀天皇となるでしょう。

問題は摂政となった神功皇后がなぜ真っ先に①~③を祀ったのか。これは応神天皇の出自に関わっているのだと思います。私は応神天皇の正体は、卑弥呼と事代主との共立統治時代に所縁ある出自の人物だと考えています。

その人物を武内宿禰と神功皇后が擁立し、新たな大王として即位させた。もしくは武内宿禰と神功皇后の不義の子を応神天皇として即位させた。そのどちらかだと考えています。

神功皇后と武内宿禰は熊襲を平定すると、三韓征伐も果たして新羅から戻ります。記紀ではそこで応神天皇が産まれます。

この時仲哀天皇の皇子の麛坂王と忍熊王が筑紫から戻る神功皇后を迎え撃とうと反乱を起こします。しかし麛坂王は赤猪に食い殺され、神功皇后は今度は摂津に前回と同じ神を祀ります。

①天照大御神の荒魂を広田国(摂津国広田神社)に置き、山背根子の女・葉山媛に祀らせる
②稚日女尊を活田長狭国(摂津国生田神社)に置き、海上五十狭茅に祀らせる
③事代主命を長田国(摂津国長田神社)に置き、葉山媛の妹の長媛に祀らせる
④住吉三神の和魂を大津の渟名倉の長狭に鎮座する

そして残る皇子・忍熊王を武内宿禰と武振熊が討ちます。

武内宿禰はその後応神天皇の禊(みそぎ)の為に近江、若狭と巡ります。そして敦賀の笥飯宮でイザサワケとホムツワケが名がえをします。

この時の禊は忍熊王への謀の際、喪船に乗せられて死を言挙げした時に穢れを負った為というのが一般的な解釈ですが、私は王殺しの禁忌で穢れた身を祓う為のものだったと考えています。

笥飯大神の加護を受けて諱を交換する。それが意味する事は王の挿げ替え。私は仲哀天皇の死は暗殺であり、麛坂王と忍熊王の反乱は正当な継承者の討伐であったと考えています。

ここで更にもう一人重要な人物を挙げねばなりません。彦坐王(ひこいますのみこ)です。

息長氏が渡来系であるのは母方の血に由来したものだと思われますが、息長氏の父方の血は彦坐王の流れを組んでいます。

彦坐王は記紀では開化天皇と姥津媛(和邇氏)の子ですが、それではこの人物の持つ特異性は説明出来ないでしょう。

彦坐王は崇神天皇と同時代の人物であり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命の父。狭穂彦と狭穂姫の父でもあり、神功皇后の父・息長宿禰王の曽祖父に当たる人です。后には息長氏の祖というべき息長水依比売がいます。

彦坐王が当時かなりの有力者であった事は狭穂姫が第11代垂仁天皇の皇后だった事からも推察出来ます。

狭穂姫は垂仁天皇の子を身籠りますが、その時兄の狭穂彦が反乱を起こし、宮中を抜け出した狭穂姫は稲城で囲った兄の砦に入り、そこで産まれた誉津別命を垂仁天皇に託すと、自らは燃え盛る稲城の中で兄と共に死ぬ事を選びました。

彦坐王は美濃に封じられていました。美濃の鴨県主です。陵墓も美濃にあり美濃加茂には彦坐王を祀る神社も多く、箸墓古墳と並ぶ国内最古の前方後円墳・夕田茶臼山古墳もあります。後に三野前国造や本巣国造に任じられるのも彦坐王の子たちです。

鴨県は美濃よりも山背の方が有名ですが、どちらも鴨氏が土地を治めた事が由来でそのまま地名になったものと思われます。

山背の鴨氏は賀茂建角身命を祖とし鴨氏を名乗りますが、彦坐王は何が由来で鴨氏を名乗ったのか。

神武朝の時代に鴨王(かものきみ)という人物がいます。古事記では鴨王の父は大物主命、日本書紀では鴨王の祖父は事代主命。

鴨王が本当は崇神朝の人物で彦坐王と同一人物なら(或いは鴨王にあやかって鴨氏を名乗ったのなら)、彦坐王の正体は出雲系の王の血を引く人物で、狭穂彦の反乱や狭穂姫の死も、神功皇后のクーデターも、この血脈に理由を求める事が出来るでしょう。

日本武尊の死から始まったこれら一連の出来事は武内宿禰と神功皇后が仕組んだクーデターであり、その協力者は二人と関係の深い葛城氏、息長氏、平群氏。そして出雲系の尾張氏や伊福部氏など。

尾張氏、息長氏、葛城氏からはこの後何人も皇后や后が輩出されるようになります。この時代は母系社会なので母親の血が重要視され、皇后に選ばれるのはその時最も権力を有した豪族でした。

伊福部氏も一地方豪族から稲葉国造に大出世をします。伊福部氏系図によれば日本武尊と同時代の14代武牟口命の功績により、孫の16代伊其和斯彦宿禰が稲葉国造に任命された事になっています(系図の説明書きでは日本武尊の征西の際に武牟口命が稲葉で挙げた功績により)。

平群氏も応神天皇以降重用されるようになり、第16代仁徳天皇の時代には大臣(おおおみ)になっています。

応神天皇の即位以降、都は山を越えた河内に遷り、巨大古墳群が作られるようになり、廃止されていた朝貢も再開されます(413~478年)。

天皇の和風諡号や漢風諡号は奈良時代の一流知識人・淡海三船が撰進したものですが、神を冠した漢風諡号が付くのは三人だけです。

初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15第応神天皇、後は摂政の神功皇后。これはそれぞれが異なる王朝である事を示唆する符号ではないでしょうか。

三種の神器はそれを一つに統べる象徴であり、日本書紀の完成と共に万世一系の天皇家のしるしとして持統天皇が考案し、新たな日嗣の御子(ひつぎのみこ)が即位する時にのみ用いられてきた。

神武朝~女王共立時代の八咫の鏡。崇神朝の草薙の剣。そして応神朝以降の八尺瓊勾玉。

八咫の鏡は台与(或いは卑弥呼)が自分の姿を映していた鏡を御霊代としたものでしょう。それが夢で崇神天皇に祟ったので宮中から離されて祀り、最終的に伊勢(伊勢神宮・内宮)に鎮座します。

草薙の剣は宮簀媛が日本武尊の御霊を鎮める為に火高火上に祀り続け、年老いてからは年魚市潟(熱田神宮)に祀られるようになります。草薙の剣が天武天皇に祟ったのは王朝を奪った血胤だからでしょう。

八尺瓊勾玉はずっと皇居内で祀られ、即位礼の儀にのみ持ち出されてきました。

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