尾張開拓の神の謎

仕事納めを済ませ、大掃除も終わり、どうやら2014年も無事に越せそうです。

ただ近年悩まされている余りに度を越した急激な記憶力の低下に加え、今年は軽い言語障害のような症状を自覚する事がままあり、既に伝えたい言葉がうまく出て来ないのは当たり前の日常。遂に60~70代の脳味噌に成り果てたのかと毎日が新鮮なショック。いよいよ後厄となる来年、人生の山場を迎えるのか……乞うご期待!

まあ、長生きする事が自分の人生の目的ではないので一向に構いません。それなりに心残りのない人生も送れたので、いつ来てもウェルカム!カモン!ただ何かしらの脳疾患の場合、他人の迷惑にならない場所でひっそりと逝ける事を願います。一番怖いのは一人で生きられない状態になってまで生かされる事。これは人によって状況や環境、倫理観がそれぞれ異なるのでこれ以上の意見は控えます。

ともあれ年を越したら旧正月辺りに後厄の厄祓いには出掛けるつもりです。(病院でなく)。前厄の時は尾張一宮・真清田神社に行き、本厄の今年は尾張二宮・大縣神社で厄祓い。どちらも謎多き式内社です。

真清田神社の祭神は天火明命。だがこれは明治以降に定められたもので、それ以前は大巳貴命、国常立尊、天火明命と資料によってまちまちではっきりしません。『真清探桃集』によれば天火明命を饒速日命と同一神と位置付け、神武天皇の時代に大和葛城山麓の高尾張邑から尾張開拓の為、八頭八尾の大竜に乗ってやって来たとかなんとか。真清探桃集は江戸中期の編纂なのでなんか余計な知識が入り混じってますね。また、尾張の地を開拓したのは天火明命の子・天香山命という説もあります。天香山命はその後越の国に移り、越後国開拓神となり彌彦神社に鎮座します。

一方大縣神社の祭神は大懸大神。大懸大神の正体も諸説あるものの、恐らく本宮山を拠点とする犬山扇状地を治めていた邇波氏の祖神で間違いないでしょう。垂仁天皇の時代に本宮山山頂から現在地に遷座したと伝わり、本宮山の山頂には現在大懸大神の荒御魂が祀られています。今はなくなっていますが、過去には環状列石があったとも伝わります。

真清田神社は天火明命の後胤・尾張氏による創建。そして尾張氏が葛城の高尾張邑から大高火上の地に移ったのは、天火明命11世孫の乎止与命の時代の時。それを10代崇神天皇~11代垂仁天皇の時代と比定すると、3世紀後半~4世紀初頭の移住と考えられます。その居住跡の石碑が氷上姉子神社の元宮・火上山に建っています。

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ちなみに記紀では崇神天皇は紀元前の大王ですが、10代崇神天皇~14代仲哀天皇の三輪王朝は、考古学的には3世紀中葉~4世紀後半の遺構となります。ちょうど卑弥呼の居住地とされる纒向遺跡の直後に当たります。記紀を鵜呑みにすれば日本は建国2600年を越え、100歳を越える天皇が古代にはウヨウヨ居た事になりますが、まあ記紀の編纂には色々諸事情もあるので、実際のヤマト王権の建国はこの頃でしょう。仮に初代神武天皇(或いはそのモデル)が実在したとしても、神武天皇東征は2世紀初頭~中葉の出来事と比定されるので、その場合欠史八代の時期に倭国大乱~卑弥呼の統治と続き、その後崇神天皇即位、祭政一致の掌握、四道将軍の派遣、天神地祇の祭祀の始まりとなります。

さて、乎止与命が尾張に移住した時、犬山扇状地を治めていたのは邇波氏の大荒田命。そして乎止与命の子・建稲種命と、大荒田命の娘・玉姫命が結婚。尾張氏は尾張北東部を手中に治めますが、建稲種命は日本武尊の東征に従軍してその岐路謎の水死。

建稲種命の妹・宮簀媛は日本武尊の妻となるも、日本武尊は伊吹山の神に敗れ能褒野で崩御。宮簀媛が日本武尊の忘れ形見・草薙の剣を祀る為に、年魚市潟に熱田の宮を創建したのは4世紀中葉頃と推定されます。(創祀1900年とは謳ってはいますが)。火上山も熱田神宮も当時は海に面し、舟で行き来していました。そして尾張氏が祖神の天火明命を祀った神社は東谷山の尾張戸神社にあり、その付近には尾張氏の古墳が多く存在します。

だが中島郡にある真清田神社と尾張氏との間には歴史的な繋がりが見つけられません。真清田神社は本当に尾張氏創建で、祭神は天火明命なのでしょうか。古代の尾張に存在した県(あがた)で現在確認されているのは年魚市県、邇波県、島田上県・下県、中島県。年魚市の県主は尾張氏。邇波の県主は邇波氏。島田上下の県主は多臣氏族の後胤。そして真清田神社のある中島の県主は鴨氏の一族です。鴨氏は京都の賀茂神社に本拠を置く氏族で、祖神は阿遅鉏高日子根命、つまり出雲系です。八咫烏の化身とされる賀茂建角身命もまた鴨氏です。

真清田神社の宮司職を代々継いだという真神田氏は大和の大神氏と同族です。とすると真清田神社の祭神は大物主命という事になります。だが真清田神社の近くには大物主命を祀る大神神社が別にあり、
その大神神社の社伝では真清田神社と大神神社の二つを合わせて尾張国一宮としたとあります。何れにしろ共通するのは真清田神社創建には出雲系の氏族が関与しているという事、そして出雲系の神が祀られていただろうという事です。

さて、大和から移住した尾張氏に対して、邇波氏は尾張土着の豪族と考えられています。4世紀中葉に犬山に築造された青塚古墳は大荒田命の陵墓と比定され、形状が前方後円墳である事から、邇波県主に任命されヤマト王権に帰順した後の築造と推察されます。年代的にも大荒田命と合致します。とするとそれに先んじて4世紀前後に白山平山に築造された東之宮古墳は、大荒田命の父か祖父の墳丘墓と比定されます。名は伝わっていませんが、形状が前方後方墳なのは邇波県主任命以前(ヤマト王権帰順前)なのかも知れません。そして大懸大神の正体はこの被葬者の可能性が高いと思われます。これ以前の犬山周辺の小規模な弥生墳丘墓からは国内で鋳造された最初期の鏡が発掘されており、東之宮古墳の副葬品にも中国製の鏡と共に、国産の銅鏡6面が見つかり、その内4面はここでしか見ることの出来ない人物禽獣文鏡という珍しいものです。

3世紀中葉の卑弥呼の死、台与の台頭を経て、崇神天皇によるヤマト王権建国と冊封の廃止が起きたのが3世紀後半~4世紀初頭頃。初期のヤマト王権で大県主任命の記述があるのは、丹波大県主、邇波大県主、志畿大県主だけです。邇波氏の勢力がヤマト王権の統治に於いて非常に重要であった事が伺えます。

今回長々と祭神について話を書きましたが、日本の神というのは全て人の事です。祖神の霊を祀る為、開拓神を祀る為、或いは祟りを鎮める御霊会の為、ヤマト王権建国以降日本では人(死者)を神として土地の守り神に据えました。縁結び、学業、安産、商売の神などというのはもっと後の時代になって作られたものです。稲荷神社も元は秦氏の祖神で、秦氏は渡来系の氏族です。願い事など叶いません。キリスト教の都合の良い部分だけが恣意的に歪みまくって、今誰もが漠然と抱く人間に都合の良い神の観念が生まれた気がします。では願い事が叶わない神社に用などないと果たしてなるでしょうか。日本人の心がある人はそうはならない筈です。

ユダヤ教では神の奴隷として存在していた人間が、やがて人間の奴隷のような神を崇める滑稽さは人間至上主義の歪みでしょうか。だが古代の日本人が人を神として崇めたのは、彼らが祖先との結び付きを何より大切にしたからです。(今では見る影もないですが)

そしてもう一つ、人は祟るからです。私には神の奇跡より人の祟りの方がより身近で現実的に感じます。それ故神を畏れる気持ちを持つ事が出来ます。そして日本の重要な大社の殆どが出雲系の神なのは、神話にある国譲りの元となる出来事が実際にあったからなのでしょう。それはまた別の機会にでも。(そんな機会が無事あれば……)

それでは皆さん、良いお年を。

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