断捨離
今回このブログを書く事で、きっと私は全ての友人を失うでしょう。常識的な人ほど反感を買う内容です。
中国で最も古い宗教に道教があります。その教義に『道は自分で学ぶ事は出来ても、人に教える事は出来ない』というものがあります。
道教に於いての『道』とは不老不死の仙人が最終目的ですが、この教義は何に於いても当てはまる事だと思います。
頭の中で分かったつもりになっている事と、経験して実感する事とは似て非なるものです。どれだけ言葉を尽くしても、絶対に伝えられないものが人間同士にはあります。
自分と同じような生き方、似たような体験、似たような知識を持ち、同じモノの見方をしている人がこの世にいるのなら、その交流は何にも代え難い共有を生むでしょう。でもそんな人間に出会う事などありません。
せめて自分の価値に依った生き方を貫き、その根底に自身の哲学が根付いている人とはこの先出会いたいと願っています。そういう人でなければ分かり合えない事をずっと抱えています。
創作は自身の投影である反面、表現は自我の排除にあります。何かを完成させた気になっても時間が経てばすぐにそうでない事に気付き、その塗り替えの連続で感じる限界は次第に人やモノの見方、考え方にまで作用し、日常生活まで侵食し、やがて自分自身を変化させて限界の先へと誘ってくれます。それを再び形にする事が私の生きる喜びです。
実際自分が作ってきたモノはそこまで大袈裟なものではありません。未だその域に達してません。でも少しづつ近づいています。そしてその為にどうしても整理しなければならない事があります。
表現を突き詰めれば特異な領域に精神を浸します。そこに長く居続けなければ形に出来ないものがあり、そこに長く居続ければ折り合いが付かなくなるものもあります。
だからそことかけ離れた人と一緒にいれば対等ではいられなくなる。伝わらない言葉で会話を交わしても心を通わす事は出来ない。
私は自分の感覚を鈍らせる相手より、それを維持出来る人との繋がりだけを求めるようになりました。
何者でもない者の自己主張は惨めでみっともない。だから私は人前でそれを自重するよう心掛けていました。しかし何者であろうとなかろうと、人は等身大でいるべきだと最近考えを改めました。
自らに蓋をして相手を尊重する事で、創るべきモノのピントまでボケている事に気付いたからです。
なぜ今回こんな事を書いたかといえば線引きの為です。
これを読んで私に否定的な見解を持ったり、憤った人とはそれが誰であれ今後付き合う事は出来ないという線引きです。そしてそれは私が関わる人全員になるでしょう。
腹の底では自主制作を軽く見ており、タダでなければ買おうとせず、人が人生懸けてやってる事を認めるより1,200円を惜しんだ偽物たち。つまり自分にとっても1,200円以下の存在。そんな薄っぺらな繋がりを私は全部絶ち切りたいと思っています。
若い時は周りも相応の応援をしてくれます。しかし年を取るとそうはいかなくなります。口には出さずとも相手の言いたい事を感知する瞬間があり、互いにその話題を遠ざけます。自分にとっては何より大切なものを自分で遠ざけます。
つまり縁を切ろうが切るまいが実際は今までと何も変わらないという事です。『自分はずっと一人だった』のだから。応援してくれる者など誰もいなかったし、反応する者も誰もいなかった。何を作っても作らなくても。
自分だけのモチベーションでこれをやり続ける事に変わりはなく、貫く事に変わりもない。ただそれをやり遂げる上で憂いの根源になるものはもう断ち切らねばならない。未練も執着も絶ち切らねばならない。共鳴しないものは捨て去らない限り視界に入って邪魔をする。その為の決断です。
……とここまで文章を読み返して感じるのは自分の傲慢さですね。言葉を噛み砕いて丸裸にすれば自分の独りよがりで偏屈な性質や、自尊心の強さが透けて見えます。
でもそれでいいんです。私は自分のしてる事の価値をよく知っています。だからそれを蔑ろにする者には逆に価値を感じません。これが新しいモノを創る為に必要な選択であるなら迷わずそうします。
冒頭のアイキャッチの画像は猫が階段を降りてるようにも、登ってるようにも見えるだまし絵ですが、人によって見え方が異なるだけでどちらが正解な訳でもありません。今回はそういう話です。