民族の本質は言語なのか

昔から不思議に思っていた事があります。なぜ日本人と西洋人とでは音楽の聴こえ方が異なるのか。

日本人は音楽を聴く時大半が意識を歌に全振りします。リズムや楽曲を聴かず、歌と声と言葉に意識を集中して聴きます。写真の背景をボカして人物だけをフォーカスするように。

しかし西洋人は歌だけに焦点を絞らず、リズムや楽曲を含むトータルで音楽を聴いています。意識なんかしなくても当たり前に生まれながらにそうしています。

海外のyoutuberのリアクション動画なんかを見るとよく分かります。その差が特にロックでは日本と海外のサウンドの違いに如実に現れていました。

なぜ民族によって音楽の聴こえ方が異なるのか。それは言い換えれば音楽を聴く時の脳の状態が違うという事です。

日本人の脳の研究をしていた医学者の角田忠信氏によれば、日本人は虫の声や自然界の音を言語を司る左脳で処理し、西洋人はそれらを音楽を司る右脳で処理するので虫の声を雑音と認識しているのだそうです。

角田氏によればこの脳の働きの違いは民族で決まるものではなく、第一言語で決まるのだとか。つまり日本人でも海外で生まれて英語が第一言語なら虫の声を西洋人のように右脳で聴くし、外国人でも日本で生まれ日本語が第一言語なら虫の声を左脳で聴く。そして日本語とポリネシア諸語だけにこの特性が見られるとか。

非常に興味深い話ですがこの角田氏の学説や実験方法には批判も多く、広く支持されてはいません。でも私はこの話に合理性を感じています。

日本人とポリネシアンに共通するのはアニミズムの文化。草木や岩などの万物には霊魂が宿り、人の意識と感応し合うという縄文からの信仰です。

それらの声に耳を傾ける為に虫の声や川のせせらぎや風の音を言語として知覚し、左脳が作用するようになったのなら理に適っています。だが民族の血ではなく言語がそれを決めるというのはどういう事なのか。

言語の研究に『言語的相対論』というものがあります。アメリカの言語学者ベンジャミン・ウォーフが唱えた理論で、『人の思考は話す言語に影響される』というものです。サピア=ウォーフの仮説とも呼ばれています。

人は思考をする時も言語を用います。逆に言語がなければ複雑な思考は出来ません。人は言語を獲得した事によって知能を発達させ、その言語の差異で思考は到達点を変え、人の思考は言語によって形成されるという説です。

この仮説が正しければ我々の『我』というものは言語に深く依存し、言葉によって思考も主張も情報も変化する事になります。

複数の言語を話せる人が使用する言語で性格を変えるというのは一般的によく知られています。日本語を話す時は慎み深くなり、英語やスペイン語を話す時は自己主張が強くなり、中国語を話す時は図々しくなる。

“I love you”は気軽に言えるのに『愛してる』は重く感じたり、話す言語によって同一のはずの人格が変化をします。

同じ日本語でも方言で印象は変わります。関西出身の人が関西弁で話す時と標準語で話す時には同一人格上の差異が生じるし、昔の町民言葉、武家言葉、公家言葉には更に顕著な違いがあったのではないでしょうか。

おそらく英語や中国語のように言葉が性格に影響を与え、相互作用しているものと思われます。奇しくもそれは自分の感情を伝える為に用いる言葉によって、自分自身が形成されているという逆説的な支配現象です。

私は民族の本質は言語なのではないかと考えています。そして言語に民族性が宿るのならば、第一言語によって脳の働きや人格が影響を受ける理由にも納得が出来ます。

アニミズムの文化は日本やポリネシアだけでなく、古代ケルトやネイティブアメリカン、マヤ、イヌイットなど世界各地の原始宗教にありました。しかしその中で日本人だけが『言葉』にも霊魂が宿ると考えていました。いわゆる『言霊』です。

言葉には神が宿り特別な力がある。だから日本人は穢れとされるものは忌み言葉にして言い換え、言霊の呪力で宇気比を行い、諱や迂闊な言挙げを避け、心象を直接口にせず自然に見立てる事で和歌を読みました。

その精神性が日本人の性質に深く根付いているのではないでしょうか。日本語には人を罵る口汚い言葉が他の国より圧倒的に少ないのもこの為でしょう。

『愛してる』を重く感じるのが言霊文化の残香なら、日本人が声に集中して音楽を聴くのも言葉を大切にしてきた文化の残香なのかも知れません。

日本人が音楽を聴く時は左脳の働きが強くなるのか。西洋人は右脳の働きが強くなるのか。アニミズム文化圏で混血化していない他の民族はどうなのか。ケルト語派が第一言語の民族はどうなのか。非常に気になる所です。

虫の声云々の話は適切な被験者と適切な方法で再実験をしない限り真偽は不明ですが、角田氏が実験した50年前よりも日本は西洋化が進み言葉も乱れているので、虫や自然の音を雑音と感じる日本人は多くなっている気がします。

言霊が宿る大和言葉への造詣が深い人と、この世の全てを『やばい』の一言で乗り切るツワモノとでは結果が違うのかも知れません。私は最近この『やばい』という便利な言葉と猫の『ニャー』が同じに思えて仕方ありません。人類は思考を捨て猫化している。

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