尾張開拓の神の謎

仕事納めを済ませ、大掃除も終わり、どうやら2014年も無事に越せそうです。

ただ近年悩まされている度を越えた急激な記憶力の低下に加え、今年は軽い言語障害のような言葉のつかえを自覚する事があり、それが当たり前の日常になりつつあります。

脳味噌の中身が高齢者のそれに成り果てたのかと毎日が新鮮なショックです。いよいよ後厄となる来年、人生の山場を迎えるのだろうか。

ともあれ年を越したら後厄の厄祓いに出掛けるつもりです。前厄の時は尾張一宮・真清田神社に行き、本厄の今年は尾張二宮・大縣神社で厄祓い。どちらも謎多き式内社です。

真清田神社の祭神は天火明命。だがこれは明治以降に定められたもので、それ以前は大巳貴命、国常立尊、天火明命と資料によってまちまちではっきりしません。

『真清探桃集』によれば天火明命を饒速日命と同一神と位置付け、神武天皇の時代に大和葛城山山麓の高尾張邑から尾張開拓の為、八頭八尾の大竜に乗ってやって来たとか。

その後胤の尾張氏も高尾張邑から第11代垂仁天皇の時にやって来ているので、天火明命の本拠は葛城高尾張にあったのでしょう(饒速日命の本拠はもっと北の鳥見白庭山です)。ヤマタノオロチに乗ってやって来たというのは天火明命が出雲系の神である事の示唆でしょうか。

真清探桃集は江戸中期の編纂で、当時得られた知識がパッチワークのように混在しているので、自分の中では限りなく偽書に近い書物です。

尾張の地を開拓したのは天火明命の子・天香山命という説もありますが、天香山命はその後越の国に移り、越後の開拓神となって彌彦神社に鎮座します。

真清田神社は天火明命の後胤・尾張氏による創建とされ、尾張氏が葛城の高尾張邑から火高火上の地に遷ったのは、天火明命11世孫の乎止与命の時代。4世紀初頭と考えられます。その居住地跡の石碑が氷上姉子神社の元宮・火上山に建っています。

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記紀では崇神天皇は紀元前の大王ですが、第10代崇神天皇~第14代仲哀天皇の三輪王朝は、考古学的には3世紀中葉~4世紀後半の遺構となります。ちょうど卑弥呼の居住地とされる纒向遺跡の直後に当たります。実際のヤマト王権の建国はこの頃で間違いないでしょう。

一方大縣神社の祭神は大懸大神。大懸大神の正体も諸説あるものの、恐らく本宮山を拠点に犬山扇状地一帯を治めていた迩波氏の祖神で間違いないでしょう。垂仁天皇の時代に本宮山山頂から現在地に遷座したと伝わり、本宮山の山頂には現在大懸大神の荒御魂が祀られています。

尾張氏の乎止与命が尾張に移住した時、犬山扇状地(現在の丹羽郡)を治めていたのは迩波氏の大荒田命。4世紀中葉に犬山に築造された青塚古墳は大荒田命の陵墓と比定され、形状が前方後円墳である事から、迩波県主に任命されヤマト王権に帰順した後の築造だと推察されます。年代的にも大荒田命と合致します。

とするとそれに先んじて4世紀前後に白山平山に築造された東之宮古墳は、大荒田命の父か祖父の墳丘墓だと比定されます。形状が前方後方墳なのはヤマト王権に帰順する前の築造だからでしょう。

そして大懸大神の正体はこの被葬者の可能性が高いと思われます。これ以前の犬山周辺の小規模な弥生墳丘墓からは国内で鋳造された最初期の鏡も発掘されており、東之宮古墳の副葬品にも中国製の鏡や辰砂と共に、国産の銅鏡6面が見つかり、その内4面はここでしか見ることの出来ない人物禽獣文鏡という大変珍しいものです。

そして乎止与命の子の建稲種命と、大荒田命の娘の玉姫命が結婚し、尾張氏は尾張北東部を手中に治めます。

建稲種命の妹の宮簀媛は日本武尊の后となるも、日本武尊は伊吹山の神に敗れ能褒野で崩御。宮簀媛が日本武尊の忘れ形見・草薙の剣を祀る為に、年魚市潟に熱田の宮を創建したのは4世紀中葉~末頃と推定されます(創祀1900年とは謳ってはいますが)。

火上山も熱田神宮も当時は海に面し、舟で往来していました。そして尾張氏が祖神の天火明命を祀った神社は東谷山にある尾張戸神社で、その付近には尾張氏の古墳も多く見られます。

だが中島郡にある真清田神社と尾張氏との間には繋がりが見つけられません。真清田神社は本当に尾張氏による創建で、祭神は天火明命なのでしょうか。

古代の尾張に存在した県(あがた)で現在確認されているのは年魚市県、迩波県、島田上県・下県、中島県。

年魚市の県主は尾張氏。迩波の県主は迩波氏。島田上下の県主は多臣氏族の後胤。そして真清田神社のある中島の県主は鴨氏の一族。

鴨氏は京都の賀茂神社を氏神とする賀茂県主氏の一族で、八咫烏の化身とされる賀茂建角身命の末裔です。なぜ山背の鴨氏が尾張にいるのか、その繋がりは全く不明です。

また鴨県は山背以外に美濃にもあり、美濃の鴨県主(美濃加茂)の鴨氏は彦坐王を祖としています。とすると中島県の鴨氏も美濃の鴨氏になるのだろうか。

真清田神社の宮司職を代々継いだという真神田氏は大和の大神氏と同族です。とすると真清田神社の祭神は大物主命という事になります。だが真清田神社の近くには大物主命を祀る大神神社が別にあり、大神神社の社伝では真清田神社と大神神社の二つを合わせて尾張国一宮としたとあります。

何れにしろ共通するのは真清田神社創建には出雲系氏族が関与しているという事、そして出雲系の神が祀られていたのだろうという事です。

今回長々と祭神について話を書きましたが、日本の神というのは全て人の事です。祖神の霊を祀る為、開拓神を祀る為、或いは祟りを鎮める御霊会の為、ヤマト王権建国以降日本では人(死者)を神として土地の守り神に据えてきました。

稲荷神社も元は渡来系の秦氏の祖神を祀る社でした。それが長い時間の経過と共に御食津神やその眷属のキツネを祀る神社に変化していきました。

今誰もが漠然と抱く神の観念は現代人がそう望んだ願望の化身に過ぎません。でもそんな神はどこの神社にも祀られてはいません。では願いが叶わない神社に人は足を運ばないでしょうか。日本人の心がある人はそうはならない筈です。

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