善良であるという事
私の家系は複雑な家系でした。祖父は初婚で三人の子をもうけましたが、三人とも三歳を迎える前に死に、最初の妻は三男を生んだ翌年に亡くなります。
その後祖父は祖母と再婚して母が生まれますが、母は隣家の医師との不義で生まれた子。母が二歳の時に祖母は協議離婚して母を実家に連れ帰りますが、祖父の縁者に連れ戻され、母は血の繋がらない祖父の元で育ちます。
母が16歳の時に祖父は再び再婚します。相手は48歳で初婚の継母でした(以降義祖母)。母と義祖母は仲が良くありませんでした。
母は24歳で結婚して家を出ると名古屋で兄を生み、相模原で私を生み、30歳で離婚して私達を連れて実家に戻ります。すると母の従兄弟夫婦二組(四人)が共謀して実家を売ろうと画策します。
母は従兄弟夫婦たちに言われるままに自分の叔母たちから寒空の中印鑑を集め回ったそうです。つまり曽祖父が死んだ時に相続登記が行われておらず、祖父の兄妹全員が相続人になっていたのだと思われます。
祖父は男一人の長男で姉と妹は皆嫁いでいましたが、登記が行われなかったのはおそらく祖父の体が弱くほぼ寝たきりだったからで、従兄弟夫婦が母に印鑑を貰いに回らせたのは自分たちでは印鑑が貰えない自覚があったからでしょう。
それで実家を売ったお金で従兄弟夫婦二組は家を買い、祖父には尾張地方の田舎街の分譲団地の一室が与えられました。そこで母と兄と私、祖父と義祖母の5人は一緒に暮らす事になりました。
私の一番最初の記憶はこの三歳の時の引っ越しです。トラックの荷台に乗ったり、家に荷物を運んで寿司を食べたり、母の足にくっついていた事を覚えています。
団地の登記は祖父の名義でしたが、実質母が世帯主で固定資産税も払い、女手一つで一家5人を支えていました。祖父と義祖母は4畳半の小さな部屋にいて、祖父は万年床でテレビばかり見ていました。そして義祖母によく怒鳴り散らしていました。
義祖母は怒鳴られてもいつも相手を宥めているだけでした。私はそんな二人が嫌いでした。子供ながらに祖父に向かって「働いてもいないくせに偉そうに怒鳴ってばかりいるな」と怒鳴った記憶があります。
私が10歳の時に祖父が亡くなると4畳半の部屋には義祖母が一人になりました。この時母は相続登記をしようとしたようですが、義祖母は頑なに半を押さず、結局途中で施設に入って私が19歳の時に息を引き取りました。
祖父と義祖母の間に子はいませんでした。祖父が49歳、義祖母が48歳での結婚だったので当然でしょう。そうなると義祖母の相続権は(両親が既に他界していたので)義祖母の兄妹に引き継がれます。その兄妹が死んだらその子へとネズミ講式に相続権は広がっていきます。
この相続権というのはおかしなもので固定資産税を払っている者にも、払っていない者にも全く等しい権利が与えられます。12年前に母が亡くなった時、私はこれを何とかしようと動きました。
調べた所、義祖母の相続人は全国各地に16人いました。当然16人全員が自分にそんな権利がある事など誰も知らず、私との繋がりも一切ない他人同然の関係です。その全員から住民票、印鑑証明、所有者への相続を認める実印を貰わなければ、私は自分の家を自分の名義で登記する事が出来ません。
ここでようやく本題です。
犯罪歴もなく、問題も起こさず、一般的に善良とされている普通の人々。近所付き合いも至ってまともで、一見どこにでもいるノーマルな人々。その中で本当に善良な人は20%弱なのだと私は思います。
それ以外は普段は善良な仮面を被っているか、或いは自分は善良であると思い込んでいる無自覚者。そういう連中がある日突然降って湧いたような何らかの権利を得、金に絡む匂いを嗅ぎつけたら、必ず利他性より利己性を優先します。相手が困っていようがいまいが。
既にお察しの通り20%弱の根拠は無償で所有者への相続を認める必要書類を提出して下さった人たちの人数です。16人中の3人。残りの12人は一人最低1万円を要求し、残りの1人は最低100万円を要求して来ました。
13人全員の要求が通らない限り半は押さないと、そう通告して来ました。当初は時効取得の裁判を起こそうとも思いましたが、煩雑な手続きに掛ける時間や、売る予定がなければ住む分には問題ないという現状を鑑みて諦めました。
これは当然といえば当然の結果です。これが至って真っ当な現実の姿です。ある日突然知らない人間から手紙やら家系図やらが届き、自分に相続権がある事を告げられ、手間賃数千円程度で住民票や印鑑証明や所有者の相続を認める実印の押印を要求されても従う人の方が少ないでしょう。
詐欺と疑われないようこちらの身元をはっきりさせた個人情報の戸籍も一緒に提出して、こちらが困っている事情を可能な限り説明した所で、なかなか人間そうは動いてくれません。メリットがないからです。過去の事例からもこういうケースで全員から半を貰う事はほぼ不可能に近い事が分かっています。
なぜ不可能なのかは単純で、大衆は善良ではないからです。一見どこにでもいるような普通の人々は決して善良ではありません。状況次第で無害にも有害にも化ける日和見菌のようなものです。
逆にこういう時、自分にメリットがなくても相手が困っている事を斟酌して利他的に動ける人こそが善良で希少な人たちなのです。
その善良な人々は実際には20%弱よりもっと少ないでしょう。ゴミをポイ捨てしないだとか、拾った財布を届けるとか、シチュエーションによってもそれは変動するし、地域差もあると思います。
無償で半を押してくれた3人はみな都市部ではない地方の人たちでした。結局登記は出来ませんでしたが本当に感謝しています。
大衆とは基本的にズルく利己的な集合体です。そして心が平穏な状態の時、第六天界には魔が潜みます。所謂魔が差すというやつです。
身近にいる普通の人たちがいつどんな犯罪を起こしても、或いは既に起こしていても、それは何も驚く事ではありません。それは単に誰も他人の本当の姿など分からないという事。人はみな自分の心にある本当の扉は他人には開きません。
人間が互いに助け合えるのは同じ境遇に遭った者同士が起こす共有現象で、本当に善良な人だけがその枠外から困った人を無償で助ける事が出来ます。でもそれは特定の少数であって大衆ではありません。
これが今回一番書きたかった事です。
無自覚である内は人は心の魔には勝てません。善良な人たちとは生まれながら当たり前にそう出来るのでなく、何かを超剋して今善良でいられる人たちの事です。
今モラルが必要ない時代へと変貌しつつあります。教育もそこを重視しておらず、漫画やアニメなどの創作物からモラルを養う機会の方が多いでしょう。倫理=法だと勘違いしてる人さえいます。
そういった超合理的な観点では自分が得た権利に執着する事が当たり前なのでしょう。しかしそのモデルケースであったアメリカの現状を見ればそこに未来などない事が分かります。
医療制度が崩壊しても現状の何が問題なのかすら分からないほどモラルが麻痺し、みな当たり前にそれを受け入れています。行き着いた合理思想社会の理屈や常識はまともな倫理がある人にはどれも受け入れがたいものばかりです。
既にモラルが崩壊した欧米の価値基準を未だ有難がってこの国に持ち込もうとする文化人や知識人には何らかの利権の繋がりを疑うし、でなければ単純に素養を疑います。
この国はもっとガラパゴス化出来る所は独自路線を貫かねば失うものの方が多くなるでしょう。グローバルなどと言ってる人間は所詮利権絡みの都合でそうしたいだけの連中なのだから。
民主主義における超合理的思想にはビジネスの都合しかなく、商売人は国の未来より金勘定の方が大切というアンモラルな話です。