トリックスター
以前、『モノの価値はネームバリューに等しい』という内容のブログ記事を書きました。それがエンタメ産業の本質であり、受け手の価値基準もそれに支配されていると。
話題にならないものに人は価値を見出さず、話題にする為に大金が投じられる。そうやって然るべきルートで提供されたものには箔があり、受け手はそこから自分のステータスになるものを選択する。
その巨大な車輪の内側がどっぷりエンタメの世界です。
私自身、影響を受けた音楽はエンタメ産業から齎されたものだったし、かつては自分も本気でそこを目指していました。自分が聴く音楽も結局ネームバリューが大きな要素を占めていました。
イマジンはジョン・レノンが歌うからこそ価値があり、全く同じ曲を無名の新人が書いても話題にすらならなかったでしょう。
モノの価値がネームバリューに等しいというのは至極真っ当な話です。
しかしそれらは現在確立された産業ビジネスに於いての一面です。ではそれらが確立される以前はどうだったのか。
ゴッホは生前数枚の絵しか売れなかった無名の作家でしたが、死後その評価は一変しました。現在の常軌を逸した金額は富裕層の自己顕示や、企業の宣伝目的にすぎず、モノ本来の価値を完全に逸脱してますが、ゴーギャンやカフカなど、死後評価された作家は少なからず存在しています。
本人の死後、遺族や関係者の働きかけで作品自体の価値が正当な(或いは正当以上の)評価を得たからです。
私が脱エンタメで音楽活動を再開したのは、単純にその枠組みで勝負するには年を取り過ぎたからですが、日本のバンドやミュージシャンが芸能人と同じ土壌に根を張る事にはずっと違和感を感じていました。
ミュージシャンによってはそのバックボーンが業界の大衆性と噛み合わないからです。昔はテレビに出ようとしなかったミュージシャンが多かったのも頷けます。
でも結局それらはただの言い訳で、要はそこで成功出来なかった事が全てです。
エンタメ産業にはこれまで良質な音楽が沢山ありました。同時に舐めてるとしか思えないような音楽も沢山ありました。
それらはどちらも同等の金に替わりましたが、時代を超えて聴かれるのは良質な方だけです。
そして今、音楽が売れない時代に突入し、音楽の在り方は様変わりしています。作り手の在り方も様変わりしていきます。今はその只中です。
もしこの先、車輪の外側からエンタメ産業を脅かすモノが生まれなければ、表現の世界はこじんまりと閉塞して、タブーに手出し出来ない、保守的で使い捨ての産業娯楽作品で溢れ返るでしょう。
表現の大前提は自由である事です。ロックとはかつてその象徴でした。そして自由である為には組織に依存しない個人の活動に立ち返らねばなりません。しかしそれは不可逆的な矛盾。そんな次世代カルチャーの誕生は私の叶わぬ願いでした。
そう叶わぬ願いです。そんなカルチャーが誕生する事はきっとないでしょう。それを成立させる為には、若く才気あるクリエイター同士が意識の共時性を起こし、作為でない本物のムーブメントが一斉に沸き起こらねばなりません。
しかし才気あるクリエイターの目的は業界の内側に根を張る事。それで食っていく為に、認められる為に、有名になる為に。
車輪の外側からそれを為そうと足掻くのは、私のように車輪の内側で夢敗れてなお、火が燻って消えない落伍者ぐらいでしょう。
エンタメ産業は今の世界には必要不可欠なカルチャーです。それを求める人は沢山います。それは一種の捌け口であり、依存性の高いドラッグのようなもの。ガス抜きの役割も担っています。
それがなければ世界が途端に空虚になるほど私達の生活に侵食し切っています。でも表現の世界に於いては、それは自らを拘束する諸刃の剣。私はトリックスターの到来を待ちわびます。
この曲は50年前に沸き起こったある特異なムーブメントと、その終焉を歌った曲です。